礼拝説教

2008年7月13日

「最初の殉教者」
使徒の働き 7章51〜60節
 今日、私たちクリスチャンが救われた時の証しをするのは,すばらしい特権であり、恵みでもあります。確かに場合によっては,私たちの証しを快く思わない人たちがいることも事実です。それでも私たちは、証しをしたことによって、死に追い込まれることはありません。しかし、初代教会においては、証しや弁明はしばしばいのちがけでした。ステパノの議会での説教の最後の所を見てみましょう。

 I. ステパノはユダヤ人たちが律法を守ってないと糾弾した。
 ステパノは、大勢の議員たちを前にして、これまでイスラエルの歴史を振り返りながら、イスラエルの民の罪を指摘してきました。彼らは当初から神とモーセに逆らって、偶像礼拝に陥ってしまったこと、神の御臨在を示す幕屋と神殿を正しく理解せず、誤った礼拝をささげて来たことを述べてきました。そして最後にこう糾弾しました。「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです」(51節)。続けてステパノは、彼らの父祖たちは、正しい方=救い主キリストが来られるのを前もって宣べた預言者たちを殺し、今あなたがたが、この正しい方を殺すものとなったのです、と言いました(52節)。さらに、あなたがたは、律法を守っていると主張しながら、実は与えられた律法を守ったことがない、と弾劾しました(53節)。ユダヤ人の指導者たちは、このように律法を守らず、旧約に預言されていたメシヤを殺した罪人だとステパノは責めたのです。

 II. ユダヤ人たちは聞く耳を持たず、ステパノを石打にした。
 ユダヤ人の指導者たちは、ステパノの説教を聞いて、心を開いて自分たちの罪を認め、悔い改めるどころか、猛烈に腹を立て、歯ぎしりをしたのです。しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天が開けて、人の子である主イエスが神の右の座に着いておられるのを見て、そのことをあかししました(55-56節)。ステパノの発言は、主イエスが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえり、天に昇り、神の右の座に着いておられることを証明した、極めて意義のあるものです。それは、主が裁判の席で,有罪を宣告される根拠となった発言(マタイ26:64)の真実性を裏づけるものです。恐らく主イエスは、石で打たれて,今にも死んでゆく愛するステパノを、ご自分の所に迎える備えができているというメッセージを伝えた、と言えるのではないでしょうか。人々は耳をおおい、ステパノを町の外に連れ出して、石で撃ち殺しました。ステパノが最後に発したことばは、主イエスの十字架に上で発せられたことばと、極めて似ているものでした(59-60節、ルカ23:46,34節)。ステパノには,同胞イスラエルに対する憎しみはなく、主イエスと同じように愛ぁ満ちたものでした。彼の生き方は私たちクリスチャンの模範でもあります。
  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
静岡県富士市今泉2640-15 TEL&FAX:0545-52-6382