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「求める人があり、導く人がいる」
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使徒の働き8章25〜40節
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一般的に教会には、会員・客員であるクリスチャンたちとまだ洗礼は受けてないが熱心に救いを求めている求道者と言われる人たちがいます。教会は、求道者が熱心に救いを求め、イエスを救い主と信じて洗礼を受けるのを心から願っています。主を求める人にはしかし、主に導く人がいなければなりません。今朝は、ピリポの宣教からこの二つを学びましょう。
I. 救いを求める人がいる。
ピリポによってサマリヤの人々の多くが信者になり、彼らは使徒たちによって聖霊を受け、こうしてサマリヤ伝道は進展して行きました(25節)。ところが主の使いがピリポに向かって、「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい」と言いました(26節)。旧約時代にあったのと同様に、イエスや使徒たちの時代でも、主が必要と認めれば、主の使い(御使い)が現れました。主の使いの現れは、ピリポをエチオピヤの女王の高官の宦官に出会わせるためでした。この宦官はユダヤ教に改宗はしていませんが、主を恐れる者として認められ、エルサレムに上って、宮で礼拝し、いま帰る途中でした(27-28節)。当時の習慣の通り、彼は声に出してイザヤ書を読んでいました。そのとき御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われたので(29節)、ピリポは近寄って、「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と尋ねました(30節)。宦官の答えは、導く人がいなければどうしてもわからないとのことでした(31節)。熱心な求道者宦官をピリポはどう導いたのでしょう。
II. 救いに導く人がいる。
宦官はイザヤ書53:7-8の箇所を読んでいました。しかし、彼には預言者がだれについて語っているかわかりませんでした。預言者は、自分についてか、だれか他の人について語っているのか,教えてください、とピリポに尋ねました(34節)。ピリポの答えは適切でした。イザヤ書のこの所はメシヤであるイエス・キリストを指し示している箇所です。彼はこの聖句から始めてイエスのことを説明しました。宦官には、ピリポの聖書の解き明かしがよくわかり、イエスを救い主として信じました。だから、水がある所に来るとバプテスマを受けたいとピリポに表明し、ピリポはそれを受け入れ、彼にバプテスマを授けました(36,38節)。するとピリポは主の霊によって連れ去られたので、宦官はそれ以後ピリポを見ることはなくなりました。しかし、彼には救いと御霊が与えられたので、心は喜びに満たされ、エチオピヤに帰って行きました。主の働きには人間の手が必ず必要です。働き手は私たちクリスチャンです。聖書の中心のことばをよく読み,理解しておいて、誰かの求めに応じて主イエスを解き明かして上げましょう。その人はきっと救いに導かれます。 |
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