私たちはともすれば、自分が他の人にどう思われているか、自分のしたことに対してどう評価されているか、気になります。人からいい人だと思われたいし、良くやったと評価されたいと思います。しかし、聖書の中には人々の評価を全く気にしない人もいます(例えばパウロ)。今日は、人々から褒めそやされたヘロデ王を神はどう評価したか、見てみたいと思います。
I. 人々から評価された王
ヘロデ王は、当時のユダヤ全土を支配する王だったので、権力もあり、威張ってもいました。ところが、ペテロに関しては、彼はなす術もなく、ペテロは厳重な牢屋から抜け出し、何処へともなく消えてしまいました。それは人間的な力が神の前にいかに無力であることを知る良い機会であったはずですが、ヘロデは番兵の大きな不始末と判断し、彼らを処刑するように命じ、カイザリヤに下って行きました。番兵たちは、わいろをもらって脱獄の手引きをしたと考えたのでしょう。一方ヘロデ王はツロとシドンの人々に対して強い敵意を抱いていました。しかし、それは彼らにとって非常に都合の悪いことでした。彼らは王の所領の地から食糧を得ていたからです。だから彼らは、王の侍従に取り入って、王と和解しようとしました。王の欠点は高ぶりでした。人々からの賞賛を得たいと思っていたのです。ツロやシドンの人々にとって絶好の機会がやってきました。王が定めた記念日に、彼は威厳を示すような王服を着けて、王座に着き、集まった人々に向かって演説をすると、民衆は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けました。
II. 神からさばきを受けた王
しかし、ヘロデ王は、人々の賞賛のことばをそのまま受けました。自分の声が「神の声だ」と言われているのに、それを否定しませんでした。彼は栄光を神に帰さなかったのです。神はどうされたでしょうか。たちまち、主の使いが彼を打ちました。彼は虫にかまれて息が絶えたのです(23節)。人々の絶賛は高ぶった心に気持ちよく響いたことでしょう。しかし、まことの神は、人の高ぶりを最も嫌うのです。高ぶりは神をそれにふさわしい地位に置きません。自分の方が神よりも高くなるのです。主は人を正しく評価し、正しくさばきます。「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」(箴言16:18)と書かれてある通りです。しかしながら、高ぶりや高慢は、クリスチャンでもしばしば陥る罪でもあります。同時に自分のしたことに対して自信が持てず、あまりに低すぎる評価をしがちです。自己卑下は謙遜と違います。人間にとって自分自身を正しく評価することは、本来むずかしいことです。パウロの考えは「今日のみことば」の通りです。人々の評価を求めず、一切を主におゆだねして、栄光を主に帰したいものです。 |