本日の礼拝は今年最後の礼拝です。2008年の新年礼拝から始まって、先週クリスマスの礼拝をおささげしたら、もう最後の礼拝となりました。この1年間の礼拝が守られたことを心から感謝いたします。礼拝は私たち主を畏れる者の中心となるべきものであり、本来喜ばしいものです。今朝は詩篇から礼拝について学びましょう。
I. 賛美の歌をもって喜び歌おう。
詩篇の中に「都上りの歌」があります(120〜134篇)。イスラエルの敬虔な人々は、三大祭りにエルサレムに上って礼拝をささげました。彼らは部族ごとに、一族ごとにグループで長い旅をしたのですが、リーダーとなる人の呼びかけに、「私は喜んだ」(122:1)のです。その巡礼のためには、お金も時間もかかりますが、それは実に喜ばしいことなのです。その宮において主におささげするものは、第一に心からの賛美です。95篇1-2節で「喜び歌おう」「喜び叫ぼう」「感謝の歌をもって・・・賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう」と詩篇の記者は、何度も会衆に賛美を呼びかけています。恐らく大会衆が心の底から大きな声を張り上げて主を賛美したことでしょう。それは大きな喜びであり感謝でした。私たちも礼拝に中で賛美が重要な要素であることを知っているのですから、できるだけ大きな声で賛美したいものです。
II. 主の御前に伏し拝み、ひれ伏そう。
私たちが礼拝をおささげしている神様は、天地万物を造られたお方であり、今もすべてをご支配なさっているお方です。いま私たちは天地をすべて自分たちのものであるかのように自由に開発し、勝手気ままに消費していますが、本当の所有者は神様です(4-5節)。さらに私たちを主が造られたのですから、私たちも主のものです。「主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊」です(7節)。だからこそ私たちがしなければならないことは、主の御前に出て、伏し拝み、ひれ伏し、ひざまずくことです。それが礼拝の最も必要な要素です。旧約時代の人たちは、文字通りひれ伏し、ひざまずき礼拝をおささげしました。今日の教会では、会衆は床にひれ伏したり、ひざまずいたりしません。確かに形式よりは真心からの礼拝を主は喜ばれます。しかし、同時に形は心の反映ですから、主を畏れ、敬いつつ礼拝するとき自然にひれ伏すことがあっても良いのです。私たちの毎週の礼拝が祝福されることを共に心から願っていきましょう。 |