昨年も世界のいくつもの紛争地域で、テロ行為や武力による攻撃と報復攻撃、政府と反政府を支持する人たちによる争いなどで、多くの尊いいのちが失われ、また多くの人々が住む場所を失なって難民となりました。私たちは常に世界の平和を願い、祈り続けています。しかし、真の平和が実現するにはまだまだ時間がかかりそうです。私たちは同時に、今置かれている所で対人関係をどう良好に保って生きていくかも考えなくてはなりません。それが最終的にもっと広い範囲の平和な関係へと発展していくと考えられるからです。
I. 平和に役立つことを追い求めましょう。
ペンテコステ以来、使徒たちや弟子たちによって福音がの宣べ伝えられ、主を信じる人々が大勢起こされました。その中にローマの人たちがいました。しかし彼らは、これまで慣れ親しんで来たローマの神々と緊密に結びついていた食事のあり方を正しく理解できませんでした。ローマにはユダヤ人でキリスト者になった人たちもいて、彼らは依然として偶像ににささげられた肉を食べず、肉を食べる人たちをさばいていました。一方ローマ人でクリスチャンになり、信仰がしっかりしていると思う人たちは、平気で肉を食べ、食べない人たちを軽蔑していました。しかし、信仰の弱い人たちは、偶像にささげられた食べ物のことで心を痛め、つまずいてしまったのです(13,15節)。キリスト者は、常に自分のことだけを考えずに、回りにいる人たちのことを考えて行動しなければなりません。自分たちが確信をもって良いと思うことをしていて、周りの人たちからそしられたり、さばかれない人は幸いです(16,22節)。「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」(12:18)とパウロが勧めていることに注意を向けましょう。
II. 互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。
キリスト者が目指すべきことを一言で言えば、先の対人関係での平和と互いの霊的成長です。霊的成長は、「徳を高める」とも訳されることばですが(15:2、I
コリント10:23,14:12)、キリスト者としての品性が向上することです。このことばは同時に教会が「建て上げられる」とも訳されます。エペソ4:12-13に記されている「キリストのからだを建て上げる」ことの内容が、信仰と神の御子に関する成長としていることに注意しましょう。キリスト者は、教会の中で全員が成長し、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致にまで至るのです。私たちの日常生活と信仰生活は切り離すことができませんが、私たちは主イエスへの信仰によって神の国に入ることができ、そこに入った者としてどう生きて良いかが一番の課題のはずです。パウロが言うように、「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜び」です(17節)。このようなものを求めつつ生きていくならば、霊的に成長し、神に喜ばれ、人々にも認められるのです(18節)。新しい年、このような生き方を目指しましょう。そのような生き方が、その枠を広げて世界の平和のための一端を担うことになるからです。 |