この世には多くの宗教があり、それぞれが人々に安心と幸せを与えることを約束しています。わが国では八百万というほど多くの神々があって家内安全・商売繁盛などのご利益を求める人々を引きつけています。ところが主イエス・キリストが与える救いは、これらとは全く違います。一言で言えば、それは罪からの救いです。あるいは罪と死からの救いと言ってもいいでしょう。そして救いを与えてくださる主イエスがあくまでも中心です。
I. 主イエスのよみがえりが最も重要である。
主エスは死人の中からよみがえり、もはや朽ちることがありません(35節)。ダビデはイエスの先祖ですが、死んで朽ち果てました(36節)。ダビデが王として即位したとき、詩篇2:7の「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ」が歌われたのですが、これは、主イエスがバプテスマを受けて、公生涯に入られたときの天からの御父のおことばとも関わりのあることばでした。そして主イエスのよみがえりによって、神の御子であり、王にしてメシヤであることが確証されました。こうしてダビデに約束したことが私たち子孫に果たされたのです(33-34節、ローマ1:4)。イエスがよみがえられたことは、私たちの罪が赦されるためのなくてはならない条件です。ダビデのように死んで、葬られ、そのまま朽ち果ててしまったなら、主イエスは、今生きておられないのですから、私たちを罪と死から救うことができません。しかし主イエスはよみがえって今も生きておられるから、罪とその結果の死をも克服されたし、私たちに永遠のいのちを与えることができるのです。
II. 主イエスの救いは律法からの解放でもある。
ユダヤ人にとって律法を守ることは至上命令でした。彼らはモーセの律法を守ることに生き甲斐を感じ、事実守っていると自負し、それによって神の前に義とされると信じていました。ところが実際は、ユダヤ人は、罪と汚れに満ちた私たちも同じなのですが、律法を守ることはできません。だから本当に真面目で正直なユダヤ人は、律法を守れず、しかし神の義を得たいと虚しい努力をして来たのです(15:10-11)。確かに律法を守り行なう者はみな、神の前にのろわれた者であり、神からの救いをいただくことができず、律法および罪から解放されません。しかし今や、主イエスを救い主と信じることによって、律法の呪いから贖い出されたのです(ガラテヤ3:10-13参照)。主イエスの十字架と復活による救いのみわざが完成した今、主イエスを信じれば、誰でも罪が赦され、神の御前に義とされ、律法から解放されます(38-39節)。だから不信仰になって主の救いを疑ったり、あざける者となって、かつてのイスラエル人のように、滅びるようなことがあってはなりません(41節)。「今日のみことば」をよく吟味してみましょう。 |