世界にある多くの宗教は人々に幸せを約束しています。それは天国への保証であり、部質的な豊かさであり、病気からのいやしであり、人間関係の修復でしょうか。どこの国にも様々な宗教があるのは、人々がそれらを願っているからです。パウロの時代の人々はどうだったでしょう。
I. 福音を聞いて信じる人々、信じない人々がいる。
パウロの一行は、ピシデヤのアンテオケからイコニオムへ行き、いつものようにユダヤ人の会堂に入って福音を語ると、ユダヤ人もギリシャ人も大勢の人々が信仰に入りました。しかし、信じようとしなかったユダヤ人もいました。彼らは異邦人をそそのかして、信じたばかりの兄弟たちに対し悪意を抱かせました。このような妨害があったのにもかかわらず、二人はイコニオムに長らく滞在し、主によって福音を大胆に語りました。主は彼らの手にしるしと不思議なわざを行なわせ、御恵みのことばが真実であることを証明しました。このように使徒たちはしるしと不思議、そして力あるわざを行ないましたが、それは彼らの語る福音が神のことばであることの証明となったのです。しかし、またしても町の人々は二派に分かれて、あるものはユダヤ人の側につき、ある者は使徒たちの側につきました(4節)。さらに異邦人とユダヤ人が使徒たちを石打にしようと企てました(5節)。このように福音を聞いた者は、福音を受け入れ、信じる者になるか、受け入れず宣教者や信者に強く反対する者となるのです。
II. 福音を聞いていやしに目を向ける人々がいる。
その企てを知った二人は、ルステラとデルベ、および付近の地方に難を避け、そこで福音の宣教を続けました。ルステラにおいての出来事です。生まれつき足のきかない人が座っていました。この人が、パウロの話しに耳を傾けていました。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言いました(10節)。すると彼は飛び上がって、歩き出しました。彼は奇蹟によっていやされたのです。奇蹟によるいやしは、瞬間的で完全であることが特徴です。ところがルステラの群衆は、パウロのしたことを誤解して、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と叫び出しました(11節)。そしてバルナバをゼウス(ギリシャの神々の主神)、パウロをヘルメス(神々の使者)と呼び、ゼウスの神殿の祭司が、パウロたちに、雄牛数頭と花飾りをいけにえとして、ささげようとしたのです。
このように多くの人々は、福音の内容よりいやしなどのしるしに引かれてしまいます。罪と死からの救いを与えてくださる主イエスと十字架のみわざにまで理解が進まないのです。真の救いは、主イエスを信じることによって与えられます。 |