私が主イエスを信じると、私が救われ、次いで家族も救われるーーこれは多くのクリスチャンが切に望んでいることです。「今日のみことば」(31節)にある約束は信じて、そのように祈っている人たちは多いでしょう。パウロたち一行は、ルデヤの家を拠点にしてピリピの町の人々に福音を語り始めましたが、占いの霊につかれた若い女の霊を追い出したため、彼女の主人から役人たちに訴えられて、パウロとシラスは長官の命により何度もむち打たれ、牢獄に入れられてしまいました。
I. 救われたい願いを起こさせる。
二人は、足かせを掛けられて、看守に厳重に番をされていましたが、真夜中頃、神に祈りつつ賛美の歌を歌っていました。ほかの囚人たちも聞き入っていましたが、突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部あいて、みなの鎖が解けてしまいました。目をさました看守は、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとしました。囚人が逃げてしまうことは、看守にとって極めて不名誉なことで、死に価することでしたから、自らのいのちを絶つ方を選ぼうとしたのです。ところが、看守が驚いたことに、パウロは、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」(28節)と言ったのです。この人たちは、何か違う。自分の持っていないもの、平安と確信を持っている、魂に救いを得ている、と感じたのでしょう。自分もそれがほしいと思って、「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」(30節)と尋ねました。福音を語る前にパウロたちの獄中での態度、行動、一言で言えば生き様そのもが看守に強烈なインパクトを与えました。そしてそれが大切なのです。
II. 信じて自分も家族も救われる。
ユダヤ人もそうでしたが、この異邦人の看守も何かをすることによって救われると考えていました。しかし、救いは行ないによって得られるものではありません。主イエスを信じることが大切です。そのためには福音を語らなければなりません。「そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った」(32節)とある通りです。主イエスを信じることが一番大切な理由は、主イエスが与えてくださる十字架と復活による救いは、信じる以外に私たちは何もできないからです。看守と家族(しもべたちも含めて)はその場で信じたようです。パウロたちは鞭で打たれたまま、傷を負ったままでみことばを語ったのです!その夜、すぐに看守がした行動は愛と勇気のある行動でした(33節)。そして、その後ですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けました。
以上のことから、福音を語る者の生き方の大切さとみことばの持つ力そして一家の主人が救われることの重要さを見ることができます。私たちも信仰をもって家族に友人にみことばを語りましょう。 |