私たちは機会が与えられて、救われた時のあかしをしたり、さらに福音を語ることがあります。そのときどのような場で、だれを対象に語るかは、重要なポイントとなります。同時に私たちがどのような境遇の中で生きて来たか、どのような教育や知識を得て来たかも大切な要素です。パウロは、かつてはパリサイ派の学者で、純粋のユダヤ人でありながら、ローマ人としての市民権も持っていました。神はそのようなパウロを宣教のために十分に用いられるのです。
I. ローマ人としての特権を行使する。
パウロたちが牢に入れられて一晩を過ごしましたが、翌日長官たちは警吏たちを送って、「あの人たちを釈放せよ」と言わせました。長官たちは、もともと占いの霊につかれた女奴隷の主人たちの訴えを、まともに受けて、何の調べもせずに、何度も二人をむちで打たせ、牢に投げ入れたのですから、一晩の懲罰の後で釈放するつもりだったのでしょう。看守は、パウロたちにその旨を伝え、「どうぞ、ここを出て、ご無事に行ってください」と言いました。ところがパウロは、警吏たちに37節のように言いました。ここで「ローマ人である私たちを、取り調べもせずに公衆の前でむち打ち、牢にいれた」ことが重要です。長官たちと同等の資格であるローマの市民権を持つ者は、裁判に当たって十分に保護されるべきであり、むち打ちなどの刑は免除されていました。だからひそかにパウロたちを釈放することは法律違反であり、パウロは正式に訴えることができます。落ち度は長官たちにあるのですから、彼らが出向いて来て詫びを言い、町から去ってくれるように頼んだのです。パウロたちがローマの市民権を持っていることは、ピリピの教会のその後の歩みのために役に立ったと思われます。
II. ユダヤ人としての特権を用いる。
パウロたち一行は、次いでテサロニケに行きました。そこにはユダヤ人の会堂があったので、パウロはいつもしているように、会堂に入って行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて集まっている人たちと論じました。そして「今日のみことば」(3節)を語ったのです。パウロ以上にユダヤ人と聖書(ユダヤ人たちは旧約聖書しか持っていません)について論じるのにふさわしい人はいないでしょう。ユダヤ人たちが長い間求め続けて来たメシヤ=キリストは、彼らの思いもよらない十字架と復活が定まっていることと、ナザレのイエスに他ならないこととを論証したのです。パウロはこのように、自分がユダヤ人であることをフルに活用しました。その結果、彼らのうちの幾人かはよくわかって、主イエスを信じ、パウロとシラスに従いました。またほかに、神を敬うギリシャ人が大勢おり、貴婦人たちも少なくなかったのです。パウロと同様、私たちも与えられた賜物や能力を用いて回りにいる人たちに福音を語りましょう。主は必ず私たちの持つすべてを用いて、福音を、あかしを語らせてくださるでしょう。 |