パウロはこれまで、時と場合によって、いわゆる伝道メッセージを語ってきました。その場合メッセージの中心がイエス・キリストであることに変わりはないのですが、語るべき対象がユダヤ人とギリシヤ人では、その語り口、アプローチの仕方に違いがあります。今回はパウロが、当時の文化の中心地、ギリシヤのアテネで(旧約)聖書やイエスについては何も知らない、しかし知識階級の人々に語った神についてのメッセージから学んでみましょう。
I. まことの神は人が造った宮には住まわれない。
パウロは、ベレヤに踏みとどまったシラスとテモテを待ちながら、アテネ市内を歩き回ったようです。そして町が偶像でいっぱいなのを見て、憤りを感じました。今は敬虔なキリスト者になっているパウロの心の中で、かつて厳格なパリサイ人だった頃のユダヤ人の血が騒いだのかもしれません。そこで会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、町の広場ではそこに居合わせた人たちと論じました。当時のギリシヤ哲学界を二分していたエピクロス派とストア派の人たちとも論じましたが、好奇心旺盛な彼らはパウロを市民による評議会が開かれるアレオパゴスに連れて行きました。パウロは、集まった人々に語りました。「あなたがたは宗教心にあつい方々なので、町の中にある多くの神々を拝んでいるものと思います。私はまた、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見ました。その神について教えましょう。この世界とその中のすべてを造られた神は、天地の主だから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。生きておられる神は、また何の不自由もないので、人に仕えられる必要もないのです。」(22-25節)
II. 神はひとりの人からすべての人々を造り出された。
多神教のギリシヤの神々と違って、まことの神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになりましたが、まずひとりの人を造り、そこからすべての国の人々を造り出し、地の全面に住まわせ、それぞれの住まいの境界とを定められました(25-26節)。パウロは、このように現在ある国々と人々との起源を教えたのです。だから造られたものを探り求めるならば、神を見いだすこともあるのです(27節)。だからまことの神は、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけないのです(29節)。神はまた、すべての人に悔い改めを命じ、ひとりの人をさばき主としてお立てになり、「その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」(31節)
死者の復活のメッセージを聞いて、人々はどう応答したでしょうか。3種類の人々がいます(32-34節)。私たちはどう応答すればよいのでしょうか。 |