私たちの人生を振り返るとき、何と多くの人たちのお世話になって来たことかと、驚くほどです。小さいうちは両親を初め、ほかの家族や親戚、近所の人たちと、多くの人たちのお世話を受けて、少しずつ大きくなって行きました。やがて学齢期に達しても、小学校の先生から、また回りの大人から実に多くのことを教えられ、また世話になっています。こうして成人し、ようやく一人前になるのですが、これからどう生きるべきなのでしょうか。パウロが引用した主イエスのおことばを取り上げてみましょう。
I. 与える人生は主イエスの生き方そのものである。
主イエスも幼い時は、両親を初め、多くの人たちのお世話を受けたことに間違いありません。その上何よりも父なる神様が聖霊とともに、主イエスと両親を守られました(マタイ1:18〜25、2:1〜15、16〜23など参照)。しかし,主イエスはすでに12歳になったとき、もはや子どもではなく、大人のように自立していました(2:41〜51参照)。なおしばらくは,両親に仕えられましたが、それは早くも「与える人生」を始められたことと考えられます。そして主は最期の最期まで人々に尽くし、仕え、すべてを与える生き方をされたのです。讃美歌121番「まぶねのなかに」の3節に「すべてのものをあたえしすえ、死のほかなにも むくいられで」とあります。まさに主イエスは、「受けるよりも与えるほうが幸いである」の生き方を貫かれたのです。だから、35節にあることばそのものを聖書の中に見いだすことができないのですが、主イエスはある時,ある所で弟子たちに語ったのでしょう。
II. 与える人生はすべてのキリスト者の生き方である。
人は,人から何かを受ける時、幸せを感じるでしょうか。確かに人から愛される時に幸せを感じるでしょう。そして,愛は与えても受けても、いわゆるお返しをしなければと、負担を感じる必要はありません(ローマ13:8)。しかし、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばを実践している人は、隣人に害を与えないので、律法をまっとうしているのです(ローマ13:9-10)。それこそキリスト者の生き方です。それは、自分のことだけでなく、他の人のことをも顧みる生き方で(ピリピ2:3)、与える生き方です。私たちは、他の人のことを思いやったり、具体的に助けてあげたりした時、よりいっそうの幸せを感じます。また、他の人に仕えることは、キリストの弟子としてよりふさわしい生き方です(マルコ10:43〜45参照)。きっと主から、そのような生き方をして喜びを感じられるように、私たちは新しく造られたのだと思われます。パウロの生き方は、まさししく与える人生でした。私たちも,主イエスとパウロに少しでも近づきたいと思います。そのような人生は本当に幸いな人生なのですから。 |