礼拝説教

2009年9月20日

「本質的でないことにも気を配る」
使徒の働き 21章15〜26節

 多くの場合、キリスト者は、様々な宗教を信じている人たちの間で生活しています。その場合、どの程度まで彼らの宗教を理解し、譲れる所は譲り、しかし信仰の本質に関わる点では妥協せずに生きて行ったら良いのかは、決してやさしいことではありません。似たような状況の下で、パウロがどのように振る舞ったかは、大いに参考になるでしょう。

 I.十字架による罪の赦しは決して譲れない。
 パウロは、すでにユダヤ人キリスト者たちと論争して、異邦人キリスト者たちに割礼を施す必要のないことを明らかにしました。この時より(紀元56年頃)、8年ほど前のエルサレム会議で、異邦人もすべての者も、イエスの十字架による救いを受け入れる者は、ひとりの例外もなく救われることが確認され、ユダヤ人のキリスト者と賢くつきあって行くために、異邦人が守るべき4か条も決議されました(15:19〜21、21:25)。パウロは福音の根幹に関わる点では、決して妥協しませんでした。ガラテヤ書に見られるように、使徒ペテロの考えにさえ、異を唱えました(2:14〜16)。もし異邦人がイエスを信じただけでは救われず、ユダヤ人と同じように、割礼を受けることが義務づけられるとなれば、福音の本質がゆがめられてしまいます。私たちは、律法の行ないによって義と認められるのではなく、信仰によって義と認められるのです。それが真理です。この点では誰にも譲れません。

 II.十字架以外では人々を配慮すべきである。
 パウロが、ユダヤ人の陰謀や迫害を覚悟してエルサレムに上って来たとき、ユダヤ人たちがパウロについて間違った噂を広めていました。パウロは、異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習に従って歩むな、と言って、モーセにそむくことを教えているというものでした(21節)。しかし、本当のことは、幾万といるユダヤ人キリスト者は、みな律法に熱心であり、パウロも律法をないがしろにしてはいませんでした(18:18参照)。しかし、ユダヤ人が間違った噂で真の信仰への道が閉ざされてしまうのは、いかにも残念なことです。主の兄弟ヤコブが一つの提案をしました。それは、エルサレム教会のユダヤ人キリスト者の中の4人が誓願を立てているので、彼らの頭を剃る費用をパウロが出してやるということです。そうすれば、パウロが律法を守って正しく歩んでいることが、みなにわかるはずです(23〜24節、民数記6:6〜9参照)。このようにする理由は、パウロの同胞ユダヤ人および異邦人への愛と熱意の故です。彼はひとりでも多く人々を救いに導きたかったのです。「今日のみことば」の通りです(Iコリント9:19〜20)。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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