私たちはパウロのように、議会で大勢の指導者たちを前にして、自分の信条を弁明する機会はまずないでしょう。しかし、裁判の席ではないとしても、小人数の集まりで主の恵みをあかしする機会があるかも知れません。どのような場合でも、主は私たちとともにいてくださって、時には勇気を、時には知恵を与えてくださって、そのあかしが一番効果的に働くのを助けてくださいます。
I. 主はあかし人に勇気を与えてくださる。
パウロはユダヤ人を始め様々な民族の人たちに福音を宣べ伝えました。その時の彼は、常に勇気百倍、自信満々だったでしょうか。今日の聖書箇所から窺えることは、先に大勢の群衆の前で弁明する間、悪意ある彼らの反応・敵意・怒りをひしひしと身に感じ(22:22〜23)、今また混乱し、二分された議会での弁明で、肉体的には披露困憊の域に達していたのではないかと思います。そして精神的にも疲れと恐れを感じていたと思われます。だからこそ、主イエスがパウロに励ましのおことばを下さったのです。その夜、主はパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい」と励まし、これからローマに行ってご自分のあかしをしなければならない、と命令するのです。その命令は、同時に主の御臨在と見守り、目的地までの導きなどの約束でもあります。たといどんなに大きな迫害があったとしても、最後の目的を果たすことができるはずです。これこそ主からの大きな励ましです。
II. 主はあかし人に知恵を与えてくださる。
知識は自分たちの努力で、際限なく増やして行くことができるでしょうが、知恵は本質的に主から与えられるものです。私たちはその知恵を用いて、知識を生かし、時に叶って応用することができます。パウロは、議会に立たされて、大祭司を始め議員の多くがまじめにパウロの話を聞いてくれないとわかったのでしょう。彼は議会のメンバーの構成に目を留めました。一部がサドカイ人であり、一部がパリサイ人であることであるのを見て取って、こう言いました。「私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです」(6節)。パウロの発言は、7〜8節に記されているように、パリサイ人とサドカイ人との間の意見を衝突させ、議会を二分させてしましました。パウロの復活の考えとパリサイ人の考えとはある面で一致していましたから、彼らはパウロに組みし、復活や御使い、霊もない主張するサドカイ派の人たちと対立し、論争と騒ぎはいよいよ激しくなりました。このように時には知恵を用いて騒ぎを起こし、別な機会を待てばいいのです。主は私たちの知恵をも用いさせてくださいます。 |