キリストにお会いするまで、人はだれでも別々な人生を、神と関わりがなく、歩んでいたはずです。事業家なら、どうしたら最大の利益をあげたら良いか日夜労苦していたでしょう。パウロは、クリスチャンを迫害する熱心な宗教指導者でした。迫害することが、自分に与えられた使命と考えていました。しかし、パウロと同じように、人は主にお会いし、新しい使命が与えられるのです。
I. イエスは誰にでも会ってくださる。
イエス・キリストは、どんな人にも会ってくださるお方です。パウロは、息を切らしてダマスコに向かっていました。そこにいるキリスト者たちを捕らえて罰するためでした。そのパウロを主は捕らえてくださいました。彼を罰し、いのちを取ることもできたはずですが、敢えてパウロに、天からのまばゆい光、天からの声をもって、ご自分がパウロが迫害しているナザレのイエスであること、ご自分はよみがえって、今も生きておられるお方であることを知らせたのです。同じように、主はかつてやくざだった人たちにも会ってくださり、キリスト者へ、中には牧師へと導いてくださいます。かつて商社マンとして働いていた私(岡本)も、友人に誘われて教会へ、キリストへと導かれました。主は、まじめな人にも、不真面目な人にも、勤勉な人にも、怠け者の人にも、何の区別もなく会ってくださいます。今は、多くの場合、人々は教会に導かれ、牧師や教会員との関わりの中で、聖書のみことばによってキリストにお会いするのです。
II. 主イエスは信じる者に使命を与えてくださる。
主イエスは、パウロにお会いしたとき、すでに彼がこれからしなければならないことを決めていました。それは「あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するため」でした(16節)。パウロの類いまれな聖書の知識と異常ともいえる熱意が、今度は主イエスを救い主として伝えるために用いられるのです。彼への指示はさらにはっきりと示されました。それは18節にある務めです。パウロ自身に人々を救う力があるわけではありません。主イエスがパウロをこの世に改めて遣わし、彼を用いて人々に福音を語らせ、彼らの目を開いて、暗やみから光へ、サタンの支配から神に立ち返らせるのです。パウロと同様に主イエスにお会いしたすべての人は、それぞれに使命が与えられます。多くの場合、召された時に置かれた所で、していた仕事(学生の場合は学び)を、改めて主から与えられたものとして受け止め、主の御栄光を現すために行なうのです。 |