パウロに比べれば、私たちはあまり多くの人たちに伝道していません。まして王とか総督のような一国の指導者と言われる人たちに福音を語る機会は、まずないでしょう。でもパウロが願ったことは、彼らの救われることでした。その点では私たちも学ぶことができます。
I. 福音の中心を真実に語る。
パウロは、アグリッパ王夫妻と総督フェストを前にして、自分が主イエスに出会って救われた体験と使徒として召されたこと、召しに応じてユダヤ人にも異邦人にも多くの人々に福音を宣べ伝えてきたことを話しました。宣教の中心は、預言の成就としてのキリストの十字架と復活でした(22〜23節)。パウロは、イエス・キリストについてこれまでの弟子たちの中で最も詳しく、深く理解していたと言えるでしょう。その彼が、祈りつつ福音を正確に、熱意をもって語ったのですから、聴衆は応答せざるを得ません。フェストは、どう反応したでしょうか(24節)。ギリシヤ哲学の素養がある合理主義者の彼は、福音の十字架と復活は信じられなかったのでしょう。パウロは気が違っていると判断したのです。また、アグリッパ王は、「わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」と言って信じることを拒絶しました。しかし、パウロの務めはまず、福音を語ることです。それも正確に真実に。
II. 救われることを願って語る。
伝道はすべての人々に宣べ伝えなければなりません。パウロは、第1回、2回、3回と伝道の旅に出て、多くの人々に、前述のように十字架と復活を中心に、福音を旧約聖書のメシヤ預言の成就として語りました。そのために彼は聖書を深く研究し、福音を正しく理解しました(例えばIコリント15:1〜8、ローマ1〜8章)。パウロは、福音の中心を決してそらすことなく、しかし聞く相手にしたがって、語り方を変えて語ったのです。それはどうにかして一人でも救われることを願ったからでした。アグリッパ王が、パウロの話を受け入れなかったことに対して、パウロは「今日のみことば」にある通りの答えをしました(29節)。パウロの願いは、自分の話、あかし、説教を聞いた人たちがみな、信じてパウロのような生き方をしてほしいことでした。そのような願いがいつも彼の心の中にあり、その願いをもって熱心に語るわけですから、救われる人たちが大勢起こされたのです。今日でも同じです。私たちは家族や親しい人たちが救われてほしいと願っていますが、パウロほどの熱意が足りないかも知れません。私たちもパウロにならいましょう。 |