礼拝説教

2010年5月16日

「生きることはキリスト、死ぬことも益」
ピリピ1:19〜26

 どのように生き、どのように死を迎えるべきかは、誰にとっても、私たちクリスチャンにとっても、大きな問題です。パウロにとっても同様でした。彼の生と死に対する考え方、そして生き方から学ぶことは大変有益です。

 I. 生きることはキリスト、死ぬことも益である。
 パウロは今ローマの獄中にあって、裁判を受ける身にあります。パウロの近くにいる兄弟たちは、投獄のゆえにますます確信を与えられて、大胆に神のことばを語るようになりました。さらに彼らは、愛をもって彼の弁証を助けるために、純粋な動機から福音を宣べ伝えています。しかし一方、ねたみや争いをもって、純粋な動機からではなく、党派心をもってキリストを宣べ伝えて、パウロをさらに苦しめている者もいます。しかしパウロは、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられていることを喜んでいます。これからも喜ぶでしょう、と言っています(18節)。このようにキリストが宣べ伝えられることは、ピリピの教会の人たちの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、パウロの救いの完成になります。それは彼の切なる祈りと願いに叶っています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死罪と定められて死ぬにしても、彼の身によって、キリストが崇められることです。だからパウロにとって、「生きることはキリスト、死ぬことも益」なのです(21節)。

 II. 生き長らえることは、教会にとって必要である。
 パウロにとって、死ぬことのもう一つの益は、世を去って愛するキリストとともにいることです。その方がはるかにまさっている、と彼は言います。しかし、肉体にとどまることは、ピリピの兄弟姉妹たちにとって必要です。彼らの所に行くことができれば、もっと多くのことを教えることができるので、彼の働きは豊かな実を結ぶことになります。だから、パウロは、生きることと死ぬこととのどちらを選んだら良いのか、わかりません、その二つのものの板ばさみとなっています、と言うのです(22〜23節)。しかしピリピの教会のことを考えれば、パウロが彼らといっしょにいるようになれば、ピリピの人たちの信仰が進歩し、喜びも増し加わるので、その方がもっと必要です。このことは私たちにも当てはまります。クリスチャンは、いつでも主イエスをお会いする準備ができていますし、天国に行くことを喜ばしいと思って生きていますが、この世にあって生き長らえているのは、それぞれになすべき務めがあるからです。まずそれを成し遂げましょう。それから神様が定められた時に、世を去ってキリストのもとへ行くことになります。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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