礼拝説教

2010年8月1日

「キリストを知っていることのすばらしさ」
ピリピ人への手紙 3章1〜9節

 イエス・キリストを知って、洗礼を受け、クリスチャンになった人は、大抵次のように言います。「もっと早くクリスチャンになっていれば良かった。高校や大学での学びの仕方も、専攻も違っていたかも知れない。就職も別な道を進んだかも知れない。」クリスチャンになるとこれまでの価値観と大きく違ったキリストによるすばらしさを知ります。パウロはどのように変化したのでしょうか。

 I. キリストを知る前の人間的な誇り
 パウロは、自分のことを語る前に、ピリピの教会に悪い影響を与えている悪い働き人(パウロは彼らを「犬」と言っています)に気をつけるように警告しています。彼らは、肉体だけの割礼を誇り、人間的なものを頼みとしています(2節)。ユダヤ人からクリスチャンになったのですが、彼らは十字架による救いを本当は知らず、なお肉体の割礼を誇っていたのです。しかし、このような人間的なものに頼むところがあるとすれば、パウロほど自慢のできる人はいないのです。彼は、八日目に割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの別れの者(しっかりと系図をたどれる)、生粋のヘブル人(ヘブル語を話す)です。律法については厳格に守るパリサイ人であり、教会を迫害したほどに律法に熱心であり、律法による義については、決して非難されるところがないまでに完璧でした(5〜6節)。クリスチャンになる前は、人はたいてい人間的なものを誇っていたのではないでしょうか。

 II. キリストを知っていることのすばらしさ
 しかし、パウロにとって得であったようなものはみな、キリストのゆえに、損と思うようになりました。パウロは次のように言い切ります。「いや、それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損を思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(8節)何という価値観の違いでしょう。パウロはキリストにお会いして、全く価値観が変わってしまいました。これまで最も大切に思っていた、割礼や律法を厳格に守って神の前に義とされる誇り、キリスト者を迫害してまでも律法に忠実に生きて来た自負心----それらをいっさいちりあくたと思うようになったのです。キリストを知って得られたすばらしさは、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つことのすばらしさなのです(9節)。キリスト者は、みなパウロと同じような経験をしているのです。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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