礼拝説教

2011年1月23日

「福音を受ける者と語る者」
コリント人への手紙 第一 4章6〜13節

 私たちが福音を聞くとき、素直で謙虚な気持ちでそれを聞き、心から受け入れるなら、私たちは主イエスの救いの中に入れられます。そして救いは、私たちの何かの業績や立派な行いによるのでなく、ただ一方的な主のあわれみと恵みによるのだと認めて、主に感謝し、御名を崇めます。しかし、救われたのは当然だと思ったらどうでしょうか。その人の信仰生活はどうなってしまうでしょう。コリントの人たちのことを見ていきましょう。

 I. 福音を受け、救われるのは当然と考える
 コリントの教会の中には、パウロから福音を聞き、救いにあずかったのに、主に感謝し、パウロを尊敬することをせずに、自分たちがすぐれているからだとか、福音を受けなくても、前から知っていた、と誇っている人たちがいました(7節)。さらに、もう十分満ち足りていて、パウロから何も教えてもらう必要はないと豪語する人たちがいました。それをパウロは皮肉を込めて「私たち抜きで、王さまになっています」(8節)と言っているのです。王さまは、確かに豊かで、満ち足りていて、誰からも貰う必要はないでしょう。でも実際は、何もかもパウロから教えられて、救いにあずかり、信仰生活のいろはから教えられてきたし、これからも教えられなければ成長しないはずです。しかし、彼らは高ぶっていて、パウロやアポロを批判したり、採点したりできると考えていました。だから、教会に分裂・分派があったのです。10節も皮肉を込めて彼らがいかに「賢く、強く、栄誉を持っている」かを自分たち使徒たちと比較して語っています。本当はまったく逆なのですが。

 II. はずかしめられ、迫害されても福音を語る
 パウロたち使徒は、主イエスのご命令を受け、エルサレムから始まって、「地の果て」へ向かって、ギリシヤ、ローマへと旅をしつつ福音を語りました。ここギリシヤの有力都市コリントへも少なくても2回にわたって訪れ、福音を語り、救いに導き、教会を建て上げました。このような伝道旅行の多くは、しかし、迫害とはずかしめを受け、十分な着物や食べ物もなく、自ら働きつつ実施して行ったのです。10節の使徒たちとコリント教会の人たちとの比較は、かなりの皮肉が込められていますが、13節までに列挙された労苦の数々も決して誇張ではないのです。使徒たちはまた、福音を宣べ伝えるとき、いわば戦いに敗れ、捕虜とされ、死罪にきまった者とされて、道中を引き回され、例えば円形競技場にみんなの見せ物として引き出されて、御使いや人々が見物するというのです(9節)。彼らが語る十字架と復活の福音は、このように多くの苦しみと迫害の中で伝えられて行ったのです。今日の私たちは、パウロたちと比較のできないようなかなり自由な時代に生かされています。だからこそ機会を作り、喜びをもって「恵みのあかし」をしたいものです。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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