礼拝説教

2011年1月30日

「指導者を見ならう」
コリント人への手紙 第一 4章14〜21節

 私たちが主イエスを信じてクリスチャンになったとき、私たちはいわばクリスチャン生活のスタートラインに立ったようなもので、これからの生活について何も体験していません。ですから、これからは、先輩たちを手本として歩みなさいと言われれば、安心できます。パウロも同じようなことを言っています。

 I. パウロにならう者となる
 コリントの人たちの中で、パウロを尊敬し、いろいろと教えてもらい、その通りに従って行きたいと思う人は、決して多くはなかったでしょう。しかし、パウロは彼らを愛していました。なぜなら、パウロは彼らを、福音によって、キリスト・イエスにあって、生んだからです(14節)。教会には何人もの指導者がいたことでしょう。しかし彼らは、いわば養育係であって、父ではありません。だからこそ、パウロは愛と厳しさをもって勧めるのです。「どうか、私にならう者となってください」と(16節)。彼がこう言っているのは、パウロが人格的に立派で、非の打ちどころもない、完璧な人間だからでないことは言うまでもありません。彼は自分自身を次のように評価しているからです。「私は使徒たちの中で最も小さい者でって、使徒と呼ばれる資格のない者です。」(15:9)また、エペソ3:8、Iテモテ1:15参照。そうではなく、今日の聖書箇所の17節にあるように、パウロの主にある生き方、生き様を見ならってほしいと願ったと考えられます。一言で言えば、使徒の働き20:19に見られるような生き方ではなかったでしょうか。

 II. テモテの生き方にならう
 テモテほど最初から最後まで父に仕えるように、パウロに仕えた弟子はいなかったでしょう。「テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう」と記されているとおりです(17節)。テモテは従って、パウロと同じように歩んだキリストの弟子だったのです。パウロは様々な迫害や困難の中で主の福音を伝えましたが、テモテも同様に迫害を受けつつ、主とパウロについて来たのです(IIテモテ3:10〜11)。テモテは常にパウロと行動を共にしてきたので、パウロがキリストを見ならっている姿をも見てきたことでしょう(Iコリント11:1)。だから、テモテもそのようなパウロを見ならったのです。
 このように私たちもパウロのような指導者の行き方を見ならうべきです。また、教会の先輩たちの信仰にもならう必要があるでしょう。なぜなら、その人たちは様々な困難を乗り切って、今日に至っているからです。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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