礼拝説教

2011年3月13日

「召されたままの状態で歩む」
コリント人への手紙 第一 7章17〜24節

 パウロがこの手紙を書いていた時代は、ローマが世界を支配していた頃で、多くの奴隷がその経済活動を支えていました。教会の中にも奴隷からクリスチャンになった人たちがいて、彼らも主の御前には、同じ主をいただく兄弟姉妹でもありました。また、ユダヤ人からクリスチャンになった人もいれば、異邦人から教会員になった人もいて、彼らの召された時の状態、立場をどう捉えたらよいか、一つの問題でした。パウロはこの点でも良い示唆を与えています。

 I. 召されたときのままの状態にとどまっていなさい
 結論から先に言えば、パウロの主張は、表題の通りに、「召されたときのままの状態にとどまること」です。それは、キリスト者になる前の状態が、奴隷であっても、自由人であっても、救いの中に入れてくださったことが重要なので、召されたときのままの状態で歩みなさい、と勧めているのです。今日の私たちの考えでは、思想・信教・言論の自由や人種・身分などによって差別されない基本的人権こそ一番重要であって、決して放棄してはならないはずですが、パウロの考えは違います。召されたとき、割礼を受けていても(ユダヤ人)、無割礼であっても(異邦人)、それは取るに足りないことで、「重要なのは神の命令を守ることです」と言うのです(19節)。その考えは、自由人と奴隷の関係にもそのまま当てはまります(21〜22節)。それらは大きな問題ではなく、私たちを代価を払って買ってくださった、キリストの恵みこそ大切な真理だからなのです。

 II. 自由の身になれるのなら、自由になりなさい
 しかし、パウロは一言付け加えています。「もし、自由の身になれるのなら、むしろ自由になりなさい」と(21節)。パウロは、“是が非でも自由の身になりなさい。そのためには、どんな犠牲を払ってでもそうしなさい”、とは言いません。その理由を、「奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです」(22節)と述べています。やはり主イエスの十字架の贖いの御業によって、罪の奴隷の状態から解放されて、自由の身になれたことが、一番重要だからです。救いこそ私たちの歩みと生き方そのものを変えるのです。滅びとさばきに向かって歩む道から救いと天国への道に方向転換して歩むことは、人生における最大の出来事なのです。パウロが「おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい」(24節)と同様の命令を3回も繰り返しているのも納得ができます。それでもなお、自由の身になれるのなら、自由になるべきです。それも主の導きによると言えるでしょう。祈りつつ新しい歩みを求めることも許された道です。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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