今日は礼拝の中で、時間的には礼拝の前に小宮山千恵子姉の洗礼式がありました。小宮山姉が主イエスを救い主と信じ、告白して、これからの人生を主に従って歩む決心ができ、信仰告白と制約の後に洗礼を受けられたことを、心から感謝しています。ご主人を始め、ご家族の方々と共に歩まれる姉のこれからの人生が、祝福されることを本当に願っています。
今日はまた「母の日」でもあります。いつも母の日には、聖書から母親について、父親のことも含まれる場合が多いのですが、メッセージをしてきました。しかし今朝は、マリヤという女性を---お姉さんのマルタに対しても同じですが---主イエスがどのように接し、扱ってくださったのかを見ていきたいと思います。
I. 主イエスはマリヤを一人の人格を持った女性として扱われた
エルサレムの近くにベタニヤという小さな村があり、そこにマルタとマリヤ、ラザロという3姉弟が住んでいました。イエスさまは、エルサレムに上って行かれるとき、しばしば彼らの家に立ち寄り、数日過ごされました。今日の聖書箇所でイエスさまは、ご自分をもてなそうとして、忙しく働いていたマルタをたしなめて、イエスの足元に座って、じっとイエスのお話に聞き入っていたマリヤをむしろほめています。42節がこの箇所の中心聖句であり、私たちは主が言われるように、どうしても必要なことをすべきと教えられます。それは、主イエスをもてなすごちそう作り、すなわち、適用として、様々な奉仕をするより、主のおことばに聞き入るほうが大切であるということです。しかし、ここでもうひとつのことを教えられるように思います。それは、主イエスがマリヤという女性を一人の人格を持った人間として見ておられることです。私たちは確かに、男性か女性かしか生きられませんが、主から愛され、最善な生き方をするようにと導いてくださるお方のもとで生きているのです。
II. 私たちは主イエスの御前で本当に必要なことをして生きるべきである
一般に母親は家庭の中で一番仕事が多く、殆ど自分のために時間を割けず、夫のため、子どものため、あるいは親たちのため、孫たちのために多くの時間を費やしています。その仕事は重要であり、決して手を抜いていい、あるいはいい加減にしたほうがいい、というものではありません。しかし、同時に一人の女性として、一人格を持つ者として生きることを教えられているようです。マルタは、主婦的な役割をして、忙しく働いていました。そのため、いろいろなことを心配し、しかも、何も手伝わないマリヤとそれを見ながら、マリヤにお姉さんを手伝ってあげなさいと勧めもしないイエス様に少し腹を立てているようです。主イエスはマルタの生き方を決して否定はしません。主婦としての大切な役割を認めていないのでもありあません。でも、本当に必要なことをすることが、人生で一番大切であると教えています。ですから、私たちは、男女の区別なく主の御前に本当に主が喜んでくださることをして過ごしたいと思います。 |