わが国においては、キリスト者の数は、人口の1%に満たない、非常に少ない数です。そのため多くの教会が、それぞれ主からの導きと力と知恵を与えられて、懸命に伝道の働きをしています。私たちに不思議に思えることですが、神は人を飛び越えて、直接伝道することをなさいません。必ず、私たち人間を用います。だからこそ私たちには、みことばを伝える務めと特権が与えられていると言えるのです。パウロはどのようにして、人々を救いに導こうとしたのでしょうか。
I. すべての人にすべてのものとなった
パウロはこう言います。「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人々を獲得するために、すべての人の奴隷となりました」(19節)。もともとユダヤ人からキリスト者になったパウロですが、「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました」(29節)と言います。彼は律法の束縛から解放されて、律法の行いではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められたことを確信しています。救いは信仰によってのみ与えられるからです。しかし、彼は何とかして、ユダヤ人を獲得するために、ユダヤ人のようになったのです。例えば、父がギリシヤ人母がユダヤ人のテモテをユダヤ人の仲間に入れてもらうために、彼に割礼を施しました(使徒16::1〜3)。一方、律法を持たない人々、すなわち異邦人のためには、パウロは敢えて異邦人のようになりました(21節)。それは、律法を持たない人々を獲得するためでした。このような姿勢は、今日の宣教師たちの、派遣された地での生活の中に見られると言えるでしょう。
II. どうにかして幾人かでも救うためである
パウロはさらに続けて、「弱い人々には、弱い者になりました・・・すべての人に、すべてのものとなりました」(22節)と言います。その目的は、すでに述べているように、「弱い人々を獲得するためであり・・・何とかして、幾人かでも救うため」です。このように伝道する相手の立場に自分自身を置くことは、決して容易なことではありません。例えば肉体的に壮健な人が、病気で弱ってる人の立場に立つことはむずかしいでしょうし、お酒を全く飲まない人が、アルコール依存症の立場に立つこともむずかしいでしょう。しかし、パウロは、敢えて今日のこれら弱い立場の人々のようになるべきと言うのです。それを言い換えれば、最も大切なことは、その人たちを救いに導きたいという切なる願いとその人たちへの愛でしょう。全く同じ立場に立ったり、全く同じレベルで歩むことはできないにしても、彼らを心から受け入れ、理解しようと努力することはできます。そしてそれが大切と言えるでしょう。23節も重要な聖句です。私たちもすべてのことを福音のためにしたいと思います。そうすれば私たちもともに福音の恵みにあずかることができるからです。 |