キリスト者としての人生は、主イエスを救い主として信じ、バプテスマを受けた時から始まります。救われるためには、何の善行も努力も必要ありません。十字架と復活による救いのみわざがすでに完成しているからです。ただ信仰によって救いをいただけば良いのです。そして、新しい歩みが始まります。でもどのように歩むかには気をつけなければなりません。パウロはどう教えているでしょうか。
I. 賞を受けられるように走る
パウロは、キリスト者の歩みを、競技場で走る競技者にたとえています。パウロにとっての人生は、まさに走りづくめだったと思われます。与えられた使徒としての務めはあまりに大きく、多いので恐らく休む暇もなかったのでしょう。私たちの場合はどうでしょうか。キリスト者としてやはり、走らなけばならないのでしょうか。ここでは、走るというのは、何を目指して生きるべきかを言っていると思われます。それは、人生の終わりに主イエスからいただける、すばらしい賞、「朽ちない冠」を受けるために走りなさい、と言っているのです。「朽ちない冠」は、「義の栄冠」(IIテモテ4:8)や「いのちの冠」(ヤコブ1:12)、「栄光の冠」(Iペテロ5:4)とも呼ばれていますが、私たちが御国に行ったときに、主イエスからいただける名誉あるご褒美です。それはすでに見たように(Iコリント3:10〜15)、永遠のいのちに関わる働きを私たちがしたことに対する主からのご褒美と考えられます(ヨハネ6:27-29も参照)。それを受けられるように走るのです。
II. あらゆることについて自制する
競技者が競技場に出て走ったり、闘技場で拳闘の試合に出るためには、あらゆることについて自制しなければなりません。古代オリンピックでは、走る、跳ぶ、投げる、打つなど26種目の競技があって、競技者として選ばれるためには、様々な訓練や自制が必要でした。しかも、最終的には月桂冠という朽ちる冠を得るためでの猛烈な訓練・努力でした。私たちキリスト者にとって、主イエスが決勝点、目標であるのでそこを目指して走り、敵は最終的にはサタンであるから、それに勇敢に立ち向かい、上からの冠を受けられることを確信して人生という走り場を走ります。そのためには、私たちは教会を中心として信仰生活と家庭生活を地道に続け、またそれぞれ置かれたところで与えられた仕事をします。そのためには、みことばの学びや祈り、様々な奉仕、救いの恵みのあかしや、様々な誘惑からの勝利など、日々の節制、訓練が必要です。しかし、自分に与えられた賜物と力の範囲内で行うべきです。27節はパウロだけでなく、すべてのキリスト者にも当てはまることばと言えるでしょう。 |