キリスト者になって、新しい歩みを始めると、これまでにないような試練に会い、誘惑を受けることがあります。その時、私たちの信仰が試されるわけですが、私たちを救いの中に入れてくださったお方が、私たちを試練や誘惑の中で信仰を失うまで、放って置かれるはずがありません。必ず勝利へと進ませてくださるはずです。今朝もパウロから学びましょう。
I. キリスト者はだれでも大きな試練に会う
「試練」と訳されていることばは、原文では「誘惑」とも訳せます。これまでのパウロの説明から、ユダヤ人の父祖たちは、40年間荒野を旅している中で、数々の罪(偶像崇拝、姦淫、主を試みる、主につぶやく)を犯し、その結果主から刑罰を受け、たった二人を除いて、みな荒野で滅ぼされてしまいました。彼らは、試練を乗りきれず、誘惑に勝てなかったからです。「試練」は神が私たちに与えるものと言えますが、「誘惑」は、自分の中にある罪を巧みに利用するサタンから来ます(ヤコブ1:12〜15参照)。私たちは決して信仰の強い者とは言えません。ですからパウロが言っているように、「立っていると思う者は、倒れないように気をつける」べきです。13節では「試練」と訳しているので、「試練」を中心に考えます。私たちが遭遇する試練は、「人の知らないものではありません」。これは私たち人間ならみな共通して会うようなものだと言うのです。私たちが受けた試練は、人生の中で一番大きく深刻だと思っても、すでに多くの先人たちが経験していることに注意したいのです。
II. キリスト者には脱出の道が備えられている
この「試練」についてパウロは「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません」と言います。試練は多くの人がすでに経験しているだけでなく、その試練は私たちが耐えられないようなものではない、と断言しているのです。あわれみ深い神は、私たちの信仰の強さ・弱さをすべてご存知ですから、耐えられないような試練はお与えにならないのです。しかし、それだけではありません。「耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださる」のです。なんというあわれみでしょうか。四面楚歌ということばがありますが、窮地に陥った人にも、上には空間があります。そのように私たちには、必ず脱出の道が備えられているのですです。このような試練に勝利した人は、信仰と忍耐において成長し、完全な者になると約束されています(ヤコブ1:2〜4参照)。私たちは、試練にあったとき、失望しないで、脱出の道があることを信じて進んで行きましょう。 |