私たちはキリスト者になって初めて、聖餐(主の晩餐)にあずかります。パウロが言っているようにそれは、主の食卓にあずかることです。一方多くの私たち同胞の中には、偶像の宮で食事をした経験のある人もいることでしょう。いわゆるお祭りの後で皆で会食をする習慣があるからです。コリントの教会の問題とその解決策は、この点で、今日の私たちの教会にとっても多くの示唆を与えてくれます。
I. 私たちキリスト者は主の食卓にあずかる
多くの教会で行っているように、私たちの教会も主イエスを救い主と信じ、水のバプテスマを受けた人は、キリスト者として認められ、毎月の聖餐にあずかります。聖餐では、キリストが十字架の上で裂かれたからだを象徴するパンをいただきます。それはキリストのからだにあずかることでです。次に、キリストが十字架の上で流された血を象徴するぶどう酒(実際はぶどう液)をいただきますが、それはキリストの血にあずかることです。私たちはともに一つのパンから食べ、一つの杯から飲むことによって、キリストのからだが一つであるように、私たちもキリストにあって一つであることを表明しています。聖餐にあずかることは、主がくださる大きな恵みであって、私たちの信仰の成長のためになくてはならない恵みの手段です。主イエスは、弟子たち、私たちのためにこの儀式を制定されたのです。
II. 偶像の宮での食事は悪霊の食卓にあずかることになる
聖書が教えている真理は、そもそも偶像の神々は本当は神ではなく、人間が造ったものに過ぎないということです。私たちには、天地万物を造られた唯一の父なる神と唯一の救い主イエス・キリストしかいません(8:4〜6参照)。この方こそまことの神です。しかし、偶像の神々を侮ることはできないし、偶像の宮で食事をすることは何でもないと、軽々しく考えてはいけません。それは、悪霊と関わることになるからです。偶像の宮で食事をすることは、悪霊の杯を飲むことになり、悪霊の食卓にあずかることになるので、私たちは避けなければならないのです。パウロは「私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません」と言っています(20節)。21節でパウロが言っていることはもっともなことです。その意味でも私たちは、偶像の宮に近づくことも、偶像の宮で食事をすることも避けたいのです。教会は聖霊が支配しておられるところです。私たちは聖霊によってサタンや悪霊の攻撃から守られます。いつでも、どこまでも主に従って行きましょう。 |