キリスト者は、あれこれと人につまずきを与えないように気をつけなければならないと教えられています。それを窮屈と考えるか、ほかの人に対する愛の配慮と考えるかで、生き方は大分変わってきます。コリントの教会の問題は、偶像の宮にささげられた肉を食べて良いか食べるべきでないかということでした。パウロの教えから学びましょう。
I. キリスト者は何をしても自由である
パウロは、「すべてのことは、してもよいのです」と言います(23節)。キリスト者は、罪が赦され、さばきから解放され、永遠のいのちが与えられて、何の恐れも、不安もなく過ごすことができます。その上、様々な束縛からも自由にされたので、思いのままに行うことができます。まさしく「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました」と書かれている通りです(ガラテヤ5:1)。しかし、この23節で付け加えているように、すべてのことが有益とは限りませんし、すべてのことが徳を高めるとは限りません。だから、そのようなことに気をつけながら、しかしなお、私たちは、何を食べても何を着ても、何をしても自由なのです。もちろん、以前主を知らず、罪の生活をしていたとすれば、もう一度罪の生活に戻る自由はありませんが。でも主に感謝して日常生活を始めるならば、むしろ私たちがしてもよいし、しなければならないことがあまりに多く、与えられた時間があまりに少ないことに気がつくほどです。もっと与えられた自由な時間を、自由に、しかし有益なことに使いたいものです。
II. キリスト者は神の栄光を現すために生活する
キリスト者になって誰でも気がつくことは、自分の利益よりもほかの人の利益を心がけるようになったことです(24節参照)。それは決して、大げさなことではなく、ごくごく自然に、他の人につまずきを与えないように気をつけて行動するとか、ほかの人の弱い良心のために配慮して、振舞うことに表れます。パウロは、「これは偶像にささげられた肉です」と言って出された肉は食べてはいけないと、言います(28節)。なぜなら、その人は偶像から完全に解放されていないから、彼も他の人もそれを食べることによって、その人の良心が汚れるからです。その人は再び偶像への信仰に戻る危険があるのです。ですから、そのような弱い良心の人に対しては、大いに配慮して行動しなければなりません。でもそれは、束縛ではなく、愛の配慮です。私たちの日常生活全般、毎日の細々とした言動が、神の栄光を現しているかどうか、問われるのです。だからパウロは「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、神の栄光を現すためにしなさい」と言うのです(31節)。そのような生き方が、人々につまずきを与えず、人々を救いに導くことになるのです。 |