礼拝説教

2011年7月17日

「愛餐会が祝されるためには」
コリント人への手紙 第一 11章17〜22節、33〜34節

 愛餐会は、教会でよく耳にすることばです。愛餐は、文字通り愛の祝宴のことで、教会に皆が集まってご馳走を食べることです。これはもともとギリシヤ語の「愛」を意味する「アガペー」から来たことばです。いかにも楽しい食事と交わりを感じさせることばです。実は、コリントの教会には愛餐に関して誤解と混乱がありました。パウロはそれを正そうとしたのです。

 I. 愛餐は皆で分け合う食事である
 初代教会の発足時には、大きな家に皆が集まり、共同生活をしていました(使徒2:41〜47)。ユダヤ人たちは、もともと朝と晩の2回食事をしていたようですが、それを共同生活をしていく中で毎日毎回行うためには、かなりの金銭的な負担と多くの労力が必要とされたことでしょう。毎日のように救われる人たちが起こされ、同胞のユダヤ人からの迫害もあったので、身を守るためにも、また、皆で礼拝し、祈り、みことばによって養われるためにも、共同生活が有意義だったと考えられます。しかし、やがて共同生活は終わりを告げ、コリントの教会のように、日曜日に皆が教会に集まるようになりました。そして、礼拝の後で食事(晩餐)をし、聖餐にあずかったようです。各自がお弁当を持参して、分けあって食べるはずでしたが、実際は、めいめいが我先にと自分の食事を済ませるので、貧しい人たちは、弁当を持って来られないので、空腹のままです(21節)。もう、最初の頃のように、皆で分け合うので、空腹な人が一人もいないような食事ではなかったのです。互いに対すろ配慮が足りなかったのです。

 II. 愛餐は皆で交わる食事である
 聖餐を主の晩餐と言っていますから(20節)、恐らく礼拝も夕方行われ、その後食事をし、聖餐に預かったのでしょう。だから、食事を持って来ず、空腹のまま礼拝と聖餐にあずかった人は、かなりの疲れを覚え、交わりが楽しくなかったことでしょう。しかし、本来は、愛餐は皆が食事を持ち寄って、分け与えつつ食べ、その中に愛と交わりがあるのですから、楽しい食事だったはずです。初代教会の発足時には、皆で一緒に食事をしつつ、楽しい交わりがあったのです(使徒2:46)。しかし、ペンテコステから25年を過ぎた、コリントの教会では、随分変わってしまい、愛の交わりがなくなってしまったようです。ですから、パウロは、分け与えないでめいめいが勝手に食べてしまうのなら、空腹な人はむしろ家で食べてから、教会に集まるように、と苦言を呈するのです(34節)。
 今日でも原則は同じです。どのような形にせよ、愛餐は、皆で分け合って食べ、主にある交わりこそ本当のご馳走です。私たちは、皆で集まって食事をするのは、年に一度のクリスマス祝会の時ですが、それは楽しい交わりの時でもあるのです。そして愛餐会は祝されています。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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