礼拝説教

2011年7月24日

「聖餐式にあずかる」
コリント人への手紙 第一 11章23〜32節

 私たちは、洗礼を受けてから、定期的に(多くの教会は第一主日の礼拝において)聖餐式にあずかります。それは単なる教会の慣習ではなく、主イエスが弟子たちに定めてくださった礼典の一つです(もう一つは洗礼式)。聖餐は、私たちの信仰の成長のために主が定めてくださったと言えます。私たちは、裂かれたパンとぶどう酒(実際はぶどう液)をいただきますが、それは次のような意味を持っています。

 I.パンは十字架の上で死なれたイエスのからだを象徴している
 初代教会においては、聖餐式は、すでに見てきたように、教会の兄弟姉妹たちが集まって食事(愛餐)をした後で行われました。主イエスが行われた最初の聖餐は、ユダの裏切りと深く関わっていることがわかります(23節)。主は、もともと一つのパンを取り、感謝をささげてから裂いて、「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい」と言われました。ですから、裂かれたパンは、私たちのために十字架の上で死なれた主イエスのからだを象徴的に表している、と言えるのです。それは、決して単なるパンではありません。私たちが信仰を持ってこれにあずかる時、キリストは真実にかつ現実に、霊的に私たちのところに存在するのです(『ウェストミンスター大教理問答』参照)。カルヴァンは「見えるしるし(主の晩餐)を与えられたことによって、同時にご自身のからだをも与えられたからである」と言っています。このように、このパンを食べることによって私たちは、霊的な意味において、キリストのからだに真実にあずかるのです。

 II.ぶどう酒は十字架の上で流されたイエスの血を象徴している
 夕食の後に主イエスは、杯をも同じようにして、「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい」(25)と言われました。この新しい契約は、モーセによる古い契約と対比されています。主が民と結んだ古い契約も血(雄牛の血です)によって確かなものとされました(出エジプト24:8)。新しい契約は、十字架の上で流されたイエス・キリストによって確立されました。私たちがぶどう酒(ぶどう液ですが)をいただくとき、イエスの血によって私たちの罪が赦され、神との和解ができ、キリストとの新しい契約関係の中で生きることができることを確信するのです。
 ですから、このパンとぶどう酒をいただく時には、イエス・キリストへの信仰が必須条件です。もし信仰がなければ、パンとぶどう酒は単なるパンとぶどう酒になってしまうからです。
 パンとぶどう酒を受けることによって、私たちはイエスの十字架の死を思い起こし、救いのみわざが完成したことによって罪が赦されたことを、確信します。それらは私たちの信仰の成長のために必要なのです。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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