聖書の中にいくつかの愛の章がありますが、このIコリント13章はその中で最もよく知られ、多くの人たちから愛されている箇所です。コリント教会の人たちが競って賜物を求めたのに対し、パウロは「さらにまさる道」を示したのです。
I. 愛がなければどんな賜物も何の値打ちもない
パウロは、ここで愛がどれほど大いなるものであるかを、最初は否定的な表現で強調しています。まず、コリントの教会の兄弟姉妹たちが熱心に求め、持っている者たちが誇っていた異言を引き合いに出します(1節)。「御使いの異言」は、あくまでも仮定として挙げたもので、パウロが実際に御使いの異言で話したとは考えられません。彼は、自分がどんなに驚くような異言で話しても、愛がないなら、うるさい騒音に過ぎないと言うのです。2節の預言、知識、信仰は、すぐれた賜物と考えられます。パウロは、どんなにすぐれた賜物があったとしても、愛がないなら、何の値うちもないと言います。また、どんなに多くの慈善を行っても、どんなに大きな犠牲を払ったとしても、愛がないなら、何の役にも立たないのです(3節)。ある注解者はこの箇所を次のように説明しています。「一つのなくてはならぬ賜物は愛である。もし人が最高の完全さにおいて、あらゆる特別な賜物を持っていたとしても、愛がなければ、彼は何ものも生み出さす、無に等しく、何の益ももたらさない。」
II. 愛は最大の徳性である
1〜3節が否定的な論理の進め方に対して、4〜7節は積極的な論理の進め方をしています。愛を擬人化して、愛のもたらす実として15の徳性を挙げています。この「愛」の代わりに「私」を入れて読むと、自分がいかにそのような徳を持っていないかを知って、非常に恥ずかしくなって、到底最後まで読めません。ところが「愛」の代わりに「主イエス」を入れて読むと、すべて完全に当てはまります。愛の人主イエスはこのような徳性をすべて持っておられ、そしてその徳性をすべて実践しておられるのです。ある注解者は、「パウロは、愛が何であるかを描こうとした時に、愛がどのように働くかを悟った。『愛は寛容であり、愛は親切です。』愛とは行動となって現れた善意である。愛とは外に表された思いやりである」と言っています。このように考えると、私たちにはない愛を主イエスは完全に持っておられるのですから、主イエスを信じている私たちに、罪の赦しと永遠のいのちとともに神の愛をも与えられていることを、改めて感謝したいと思います。そして愛を少しでも実践できるように励みたいと思います。 |