人間的な愛にも、美しく、自己犠牲的なところがあり、すばらしいものと思いますが、聖書の教える愛は神の愛です。そのたぐいなき特質は、あらゆる賜物よりも大いなるものであり、またさまざまな徳性となって現れます。愛はその徳性の中心にあるものです。且つ「決して絶えることがない」のです。
I. 愛は決して絶えることがない
コリントの教会の兄姉たちは、預言、異言、知識の賜物を求め、また持っていると思う者はそれを誇りました。しかし、パウロはそれらの賜物は、いつかすたれると言います。「預言」は確かに旧約時代、そして新約時代も神は多くの預言者を立てて、ご自分のおことばを与え、人々に語らせました。しかし、聖書が完結したいま、その多くの働きは終わりました。「異言」は、その必要がなければ止みます。「知識」も神と人間についての知識も、まして一般的な自然科学の知識も、新しいものに塗り替えられてしまいます。それは、知識も預言も一部分であり、不完全だからです。完全なものが現れる時、すなわち、主イエスが再びおいでになる時(再臨)、パウロが言うように「顔と顔とを合わせて見ることになり、・・・私が完全に知られているように、私も完全に知ることになります」(12節)。それに比べて、愛は神の愛ですから、決してすたれることがないのです。
II. 信仰と希望と愛の中で愛が一番すぐれている
パウロは、この愛の章の締めくくりとして、いつまでも残るものに、愛のほかに信仰と希望を挙げ、その三つを比較しています(13節)。「信仰」は、私たちが御父と御子を信じる信仰であり、神が与えてくださったものです。その信仰によって私たちは主イエスを信じて救われます。さらに主を信頼し、従って行くので、天国に行くことができます。「希望」は、主エスが再びおいでになるのを私たちが待ち望むことで、その日を待ち望みつつ、現在の試みと苦難の多い信仰生活を忍耐をもって続けます。そして天国へと導かれます。一方、「愛」は神の愛であり、それを私たちに与えてくださったので、私たちは御父と主イエスを愛し、兄弟姉妹たちを愛することができます。この三つともこの世に生きる私たちに与えられ、天国まで続きますが、その中で愛が一番すぐれているのです。その理由は、前の二つが人間から神に対するものであり、私たちは受けるだけのものであるのに対し、愛は、神の本質そのものであり、受けそして与えるものだからです。愛は大いなるものなのです。 |