ごく一般的な教会は、初代教会時代のままの預言や異言、いやしや奇蹟がそのまま現在の教会に当てはまると考えません。それは、旧約も新約も聖書全体が完結しているからです。今日の私たちにもっとも必要なことは聖書を正しく理解して、そこから主ご自身のメッセージをいただき、みことばに生きることです。その点で、パウロの教えは私たちに多くの示唆を与えてくれます。
I. 異言は不信者のためのしるしである
パウロは、異言は解き明かさない限り、異言で祈っても、知性は実を結ばないと言います(13節)。人が異言で祈るなら、彼は確かに神に対して祈っていると自分ではわかりますが、その内容はわかりません。ですから、パウロが言うように、知性で祈り、知性で賛美しなければ、自分でもアーメンと言えないし、周りの人も彼の祈りに対してアーメンと言えません。従って他の人の徳を高めません(16〜17節)。パウロは多くの異言を語ったと言っていますが、「教会では、異言で1万語話すよりは、私の知性を用いて5つのことばを話したいのです」と強調します(19節)。そのわけは、異言はそれを聞く人を不信者のままにさせておくからです。パウロは、それを「不信者のためのしるし」と言います。確かに信仰を持っていない人が教会に来ても、皆が異言で語っていたら、皆気が狂っていると言うでしょう(23節)。ですから異言は初心の者とか信者でない者にとって、何ら信仰に導く積極的な効果を現さないのです。
II. 預言は信者のためのしるしである
一方預言は知性で語るわけですから、信者でない者や初心の者が教会に入って来た時、その人は話される預言によって罪が示され、心の秘密があらわにされ、悔い改めて、イエス・キリストを信じるようになるのです(24〜25節)。このように預言は信者のためのしるしです。預言によって人は信仰を持つことができ、またその人の信仰は成長します。こう考えるならば、御霊の賜物の中で預言がよりすぐれた賜物と言えるのです。だからこそパウロは異言より預言を求めるように勧め、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさいと言うのです。今日パウロの時代のような預言が私たちに与えられると考えません。では預言が果たした役割に代わるものは何でしょう。それは、みことばの正しい解き明かしです。みことばを正しく理解し、それをわかりやすく教え、伝えることです。そうすれば初心の人が教会にきて、求道者になり、イエス・キリストを救い主と信じて、救われ、洗礼を受けて、教会で与えられた賜物を生かして主と教会と社会に仕え、みことばによって成長するのです。 |