多くの福音的な教会は、礼拝を定まった順序に従って進めます。ある教派ではそれを嫌って、もっと自由な礼拝がいいと言って、御霊の導かれるままに進めていく教会もあります。しかし、私たちは、一定の秩序をもってもって行う礼拝の中に、むしろ御霊が働き、その中に束縛ではなくて、主にある自由を感じます。コリントの教会の場合もしばしば礼拝の秩序が乱されたようです。
I. 預言も異言も秩序をもって行う
コリントの教会で礼拝や公の集会がどのように行われていたのかは、定かではありませんが、様々な賜物を持った兄弟たちが、公の場で賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりしていたことがわかります(26節)。もし彼らが、無秩序にめいめい勝手気ままに行なっていたとしたら、礼拝や集会と言えず、教会の徳を高めません。だから、「そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい」とパウロは言うのです。具体的には、異言の話す場合の順番の必要性やその解き明かしの重要性、預言する場合の人数の割合と吟味の必要性など混乱なく行われれば、「すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです」(31節)。このようにコリントの教会の礼拝や集会のプログラムや進行の仕方は、今日の多くの教会のそれと随分違っていたのです。しかし、大切なことは、知性や理性を用いてそれぞれの賜物を生かしながら、秩序ある集会を持つことです。それは今日の教会の礼拝にも言えることです。
II. 夫も妻も秩序をもって振る舞う
初代教会では、これまで差別をされていた女性の権利も大切にされていたと思われます。確かに救いに関しては、「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスあって、一つだからです」(ガラテヤ3:28)とパウロが言うとおりです。そのため、教会でしばしば女性が大きな声で話したり、夫に尋ねたりしたようです(34節)。しかし、それは当時の一般的な習慣と異なっているのみか、主の御前の男女のあり方や夫と妻との関係から考えても、ふさわしいあり方ではなかったのです。あくまで男性や夫が指導性を発揮し、女性や妻は夫に従うべきなのです。パウロは後年、テモテへの手紙の中で同様の勧めをしています(Iテモテ2:8〜12参照)。いずれにせよ、これらのことは教会や家で女性を差別したり、男性が支配したりすることではなく、男女の秩序ある関係の問題です。そして「神が混乱の神ではなく、平和の神」ですから、礼拝の秩序ある進め方が大切なのです(33、40節)。 |