コリントの教会の人たちの中に、死者の復活はない、と言っている人がいました。パウロは彼らの考えが間違っていることを、キリストの復活から説き起こし、説得して来ました。確かにキリストは眠っている者の初穂としてよみがえりました。その後に続く者は、キリストに属するすべてのクリスチャンです。彼は続けて、死者の復活は、キリスト者の生き方を左右する大切な知識であると述べます。
I. 死者の復活があるので、苦難に耐えて生きられる
当時のコリントの教会では、キリスト者の洗礼に際して、「死者のゆえにバプテスマを受ける」ことが行われていたようです。詳しいことはわからないのですが、立派な信仰生活を全うしたキリスト者の先輩たちの信仰を記念して、バプテスマを受けたようです。先輩たちの信仰に倣って、これからの信仰生活に励もうと決心するのでしょう。これは、当時キリスト者の生活が、平穏無事でなんの苦難や迫害がなかったからではなく、むしろ危険にさらされていたから、このようなことをしたと考えられます。パウロが「兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です」(31節)と強調しているように、彼は、文字通り死の危険の中で諸教会に福音を宣べ伝えていたのです。パウロやキリスト者の困難な福音宣教や信仰生活を支えてきたのは、まさに死者からの復活への希望だったのです。32節の前半については、解釈がむずかしいのですが、文字通りに取るというより、比喩的に取るべきでしょう。パウロはエペソで宣教活動において、霊的な困難さを覚えたのです(IIコリント1:9〜10参照)。それはサタンや悪霊との戦いでした。それを「獣と戦った」と表現しているのと思われます。
II. 死者の復活がなければ、京楽的な生き方になる
パウロが言うように、「もし、死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか』ということになるのです」(32節)。これは刹那的で享楽的な生き方をしている人たちが当てはまるでしょう。キリスト者は一般に真面目ですから、享楽的な生き方をしているわけではありませ。しかし、もしいのちがこの世で終わるだけで、天国で主イエスにお会いする望みもなければ、ましてキリストの再臨の時、復活することもないとすれば、節制する目的も意味も感じられないのですから、この世だけの生き方を大いに楽しめば良いということになるのです。パウロは続けて、思い違いをしてはいけないことと、そのような間違った考え方をしている人たちと友だちになってはいけないことを警告しています(33節)。キリスト者のしっかりした信仰に基づいた生活、良い習慣が損なわれてはいけないのです。復活の希望があれば、目を覚まして、正しい生活を送り、罪の生活を止めます。それは結局神について正しい知識を持つことが肝心であるということです(34節)。 |