新しい年の私たちの信仰生活を考える時とき、礼拝が最も大切な務めであり、特権であると言えるでしょう。「ウエストミンスター小教理問答書」の問1「人のおもな目的は何であるか」の答えには、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである」とあります。また、問46「(十戒の)第一戒は何を求めているか」の答えには、「神が唯一のまことの神、また私たちの神であることを知り、認め、それにふさわしく神を礼拝し、あがめることを求めている」とあります。従って、礼拝こそ、私たちの人生の目的にかなうものであり、神が求めておられることなのです。
I. 喜びと感謝の賛美をささげよう
詩篇95篇1〜2節にあるように、詩篇の記者は、宮の礼拝において「喜び歌おう」「喜び叫ぼう」「感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう」と大きな声での喜びと感謝の賛美を呼びかけています。当時の会衆は、心の底から大きな声を張り上げて主を賛美したことでしょう。それは大きな喜びであり、感謝でした。私たちも、毎週の礼拝において、心の底から三位一体の神を賛美したいと思います。
II. 主の御前にひれ伏し、ひざまずこう
私たちが礼拝をおささげいている神様は、天地万物を造られた主であり、すべてのものの所有者です(4〜5節)。そして私たち人間を造り、私たちは、その牧場の羊、その御手の羊です(6〜7節)。私たちの羊飼いはまた、大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王です(3節)。だから私たちがしなければならないことは、主の御前に出て、伏し拝み、ひれ伏し、ひざまずくことです。それが主の栄光を表す私たちの行為なのです。
III. 御声を聞いて、素直な心で主を信じよう
礼拝において私たちはみことばを聞きます。それは聖書朗読であったり、説教であったりします。みことばを聞いたなら、心をかたくなにしないで、悔い改めて主を救い主と信じることです。かつてのイスラエル人は、モーセを通して主からのみことばを聞いても、心をかたくなにして、主を試み、御怒りを引き起こして、荒野で40年の間さまよい、結局約束の地に入れませんでした。主は彼らを安息に入らせなかったのです(7〜11節)。
この安息は、主イエスが私たちに与えてくださる罪からの救い、主にある憩いを意味しています。主イエスが十字架と復活によって救いの道を完成してくださったので、主を信じる者は、だれでも主の安息に入れるのです。主に心から感謝の礼拝をおささげしましょう。 |