昨年も平穏無事な1年とは言えませんでした。誰も忘れることのできない未曽有の大災害、東日本大震災が3月11日に起きました。私たちは一日も早い復旧・復興と共に、原発事故の収束を願っております。そして中東の春と言われる大規模な市民活動が中東で続いていて、例えばエジプトやリビヤなどに平和で民主的な安定した国家ができることを期待しています。しかしなお中東など多くの紛争地域で、尊いいのちが失われています。戦争や争いはどうしてもなくならないのでしょうか。でもまだ望みがあります。その望みを聖書から見いだしましょう。
I. キリストは隔ての壁を打ちこわされた
主イエスが来られるまで、神殿には異邦人の庭があって、異邦人はその庭にのみ入ることを許され、そこで神様を礼拝しました。しかしそこより内側に入れば、ユダヤ人から殺されても文句は言えませんでした。その上多くの異邦人はまことの神様を知らず、イスラエルの人々の受けている契約や希望から除外されていました(11〜12節)。しかしキリストがこの世に人となって来てくださり、十字架にかかってくださったので、ユダヤ人と異邦人とを隔てている壁であり、敵意---それはさまざまな規定からなりたっている律法---が、廃棄されました。こうして両者はキリストにあって一つのからだにつくりあげられたのです(14〜15節)。主イエスの十字架は、ユダヤ人と異邦人の間の敵意をなくさせただけでなく、世界のあらゆる国々の間での敵意を取り去り、平和な関係を実現させる基盤を築きました。キリストにあって人々は平和な関係を持つことができるのです。
II. キリストにあってすべての人は神と和解した
キリストの十字架は、同時に、ユダヤ人や異邦人、すなわち世界中のすべての人々をこれまで敵対していた神様と和解させる尊いみわざです(16節)。キリストにあってすべての人は神様に近づくことできるようになり、すべての人はキリストにあって一つになれるのです。それが教会です(18〜20節)。人として来られたキリストご自身が、またペンテコステの時からは聖霊に導かれて弟子たちが、遠くにいた異邦人にも、近くにいたユダヤ人にも平和の福音を宣べ伝えました(17節)。きリストにあって、人々は神と和解し、心の中に平安・平和を与えられて、今度は彼らが、和解の福音を人々に語って、人々を平和な民に変える役割を果たすのです。
「平和をつくる者は幸いです」と主イエスは言われました。キリスト者こそ積極的に平和をつくり出すことができます。神の子どもと呼ばれる者として、平和の実現のために努めることは極めて自然だからです。その努力の多くは教会の働きです。教会すなわち神の家族になって初めて、世界の人々は一つになり、世界に平和がもたらされます。私たちの希望もそこにあります。 |