2012年度の年間目標は、上記の表題と決まりました。私たちの信仰生活にとって礼拝が最も大切な務めであり、特権であります。「ウエストミンスター小教理問答書」の問1「人のおもな目的は何であるか」の答えは「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである」とあります。また、問46「(十戒の)第一戒は何を求めているか」の答えは「神が唯一のまことの神、また私たちの神であることを知り、認め、それにふさわしく神を礼拝し、あがめることを求めている」とあります。従って、礼拝こそ、私たちの人生の目的にかなうことであり、神が求めておられることなのです。
I. 喜びと感謝の賛美をささげよう
詩篇95篇1-2節にあるように、詩篇の記者は、宮の礼拝において「喜び歌おう」「喜び叫ぼう」「感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう」と大きな声での喜びと感謝の賛美を呼びかけています。当時の会衆は、心の底から大きな声を張り上げて主を賛美したことでしょう。それは大きな喜びであり、感謝でした。私たちも、毎週の礼拝において、心の底から三位一体の神を賛美したいと思います。
II. 主の御前にひれ伏し、ひざまずこう
私たちが礼拝をおささげいている神様は、天地万物を造られた主であり、すべてのものの所有者です(4-5節)。そして私たち人間を造り、私たちは、その牧場の羊、その御手の羊です(6-7節)。私たちの羊飼いはまた、大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王です(3節)。だから私たちがしなければならないことは、主の御前に出て、伏し拝み、ひれ伏し、ひざまずくことです。それが主の栄光を表す私たちの行為なのです。
III. 礼拝の態度があかしとなる
礼拝において私たちはみことば(聖書朗読や説教を通して)を聞きます。みことばを聞いたなら、心をかたくなにしないで、悔い改めて主を救い主と信じることです。かつてのイスラエル人は、モーセを通して主からのみことばを聞いても、心をかたくなにして、主を試み、御怒りを引き起こして、荒野で40年の間さまよい、結局約束の地に入れませんでした(7-11節)。私たちはそうであってはなりません。主を信じ、主に心からの礼拝をおささげするのです。同時に私たちに与えられた賜物を生かして、さまざまな奉仕をします。私たちが喜びをもって、礼拝し、感謝をもって奉仕をするならば、周りの人たちは、教会に何かがある、魂のやすらぎと憩いがあると思うのではないでしょうか。礼拝を守ることはあかしをすることでもあるのです。 |