教会が礼拝する場所であり、商売をする場所でないことはだれでも知っていることです。しかし、往々にして、伝道・教育の枠を越えて、教会堂を使って学習塾をしたり、いろいろな趣味の教室を開いたりする教会があります。それらの活動がどこまで許され、どこから許されないかはむずかしい問題ですが、主イエスのなさったこと、言われたことをよく吟味することが大切です。
I. 宮の中で商売をする者たちがいた
ガリラヤのカナで水をぶどう酒に変える奇蹟を行なってから、イエスは母や兄弟たちや弟子たちといっしょにカペナウムに下って行き、短い期間そこに滞在されました(12節)。その後、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られました(13節)。そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、動物たちをみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒してしまいました(14〜15節)。このような大きな祭りには、大勢のユダヤ人がユダヤの各地から、また遠く外国からエルサレムに集まって来ました。彼らはいけにえの動物を携えて来ませんでしたし、お金もローマのデナリを持ち歩いていました。それで礼拝のために、いけにえのための動物を異邦人の庭で買って、ささげたのです。またデナリ貨幣を聖所の貨幣シェケルに替えて、納めたのです。しかし、これは心からの礼拝ではありません。そして、神を礼拝すべき宮が商売の家となっていたのです。16節でイエスが言われたとおりです。
II. 神殿はイエス・キリストご自身のからだ
早速宗教的な指導者であるユダヤ人たちが口をはさみました。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか」(18節)と言うのです。イエスのお答えは19節にあるとおりです。ここの「神殿」は、実際の建物であるヘロデの神殿を指し、同時にイエスのからだをも指しています。また、この「神殿」は、聖所を指すことばで、14節にある「宮」が庭を含む広い場所を指すのと違いがあります。「この神殿をこわしてみなさい。私は三日でそれを建てよう」(19節)は、「神殿」が建物を壊すこととイエスのからだを殺すことの両方を指し、「三日でそれを建てよう」はイエスのよみがえりを意味しています。神殿がイエスのからだを指して言われたことは、弟子たちにとってわからなかった真理です。その意味が本当にわかったのは、イエスが死人の中からよみがえられた時でした。「今日のみことば」のとおりです(22節)。この神殿はキリストのからだである教会につながります。私たちは、父なる神とよみがえられた主イエスに心からの礼拝をおささげしましょう。 |