主イエスがこの世に来て下さったのは、私たちを救うためであって、さばくためでないことは、すばらしいことです。私たちは、神のさばきを恐れて、自分が本当にしたいこともできずに、ただ、罪を犯さなないように、ビクビクして過ごさなくても良いからです。しかし、私たちには主を信じることが求められていることも事実です。
I.主を信じる者はさばかれない
イエス・キリストは救い主としてこの世に来てくださいました。ですから、私たちがイエスを救い主と信じるならば、救われて、永遠のいのちが与えられ、天国に行くことができます。一度主を信じるならば、その罪の赦しは永遠に有効であって、たとい私たちが重い病気になって、記憶を失ったとしても、救いをなくすことはありません。それは私たちの信仰を主イエスと御父が最後まで守ってっくださるからです(ヨハネ10:28〜29)。私たちが必死に主イエスにしがみついて、その信仰を守ろうと努力するというのではなく、主のほうから御手を差し伸べてくださって、私たちを支えてくださるのです。それはちょうど、羊飼いがその愛する羊を守ってくださることと同じです。その羊飼いは主イエスであり、羊は私たちです。(10:10〜15参照)。こうして、私たちの信仰は、主イエスが再び来られる日まで守られて、主の日に私たちは、ほかの聖徒たちとともによみがえることができるのです(6:39〜40)。
II. 主を信じない者はすでにさばかれている
聖書全体の教えは、主イエスを信じない者は、やがて主が再び来られる時(再臨の時)に、今度はさばき主としての主イエスの御前に立って、さばきを受けなければならない、ということです。できれば避けたい教えであり、見過ごしたいところですが、主イエスがはっきりと言っておられるのです(マタイ16:27)。そしてこの宣言が、主イエスが有罪とされて、十字架につけられる決定的な証拠とされました(マタイ26:63〜66)。しかし同時に、主イエスを信じない者は、すでにさばかれている、と著者ヨハネは語っています。「信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(18節)そしてそのさばきというのは、「光が世に来ているのに、光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである」(19節)ということです。実にさばきは、今、始まっているのです。その人が光よりもやみを愛した事自体がすでにさばきです。彼は、そのままでは永久に主の許に、光のほうに来ないでしょう。そのままその人が生涯を終えることになれば、彼はやがて最後のさばきに会うことになります。でも恵みに目を向けましょう(21節)。それが私たちの歩むべき道です。 |