礼拝説教

2012年7月15日

「刈り取るまでの労苦と喜び」
ヨハネの福音書 4章34〜38節

 農家の人が穀物の収穫のためには、種蒔きと多くの労苦が必要であることを、私たちはよく知っています。雑草取りから始まって、畑の耕し、種まきと施肥、さらなる雑草取り、そして必要な雨、それらが皆相まって、収穫の時期を迎えます。それは大きな喜びです。魂の刈り取りについても同じなのです。

 I. 多くの人たちの種蒔きの労苦があった
 一人の人の救いのためには、多くの人たちの涙による種まきが必要です。ユダヤ人の救いのために、主イエスは弟子たちを遣わしました。彼らが魂を刈り取るのですが、それまでに旧約のモーセを初め、多くの預言者たちとバプテスマのヨハネの労苦を伴った種まきの働きがあり、最後に主イエスの十字架の贖いのみわざの完成が必要でした。サマリヤの人たちの魂の刈り取りのためには、同様に先人たちの労苦があったのです。そしてここではイエスご自身がサマリヤの女に伝道し、サマリヤの女はその町の人たちに主イエスを紹介しました。さらにこの次に学びますが、主イエスは彼らに直接福音を語り、彼らは信じたのです(41〜42節)。このように37節で主がことわざとして言われたことが、確かに実現しているのです。私たちの場合も同じことが言えます。私たちが救われるためには、何と多くの人たちが福音の種を蒔き、信仰を持つことができるまで、罪について、十字架について、信仰によって救われることについて教えてくれたことでしょう。

 II. イエスの弟子たちは労苦の実を刈り取る
 主イエスは伝道の働きを続ける中で、弟子たちを遣わして福音を宣べ伝えさせました。さらに主が十字架と復活による贖いのみわざを成し遂げられた後で、弟子たちを派遣して福音を宣べ伝えさせましたが、これは弟子たちの「労苦」ではないのです。先人たちの労苦があり、主イエスの苦難があって、弟子たちは、その労苦の実を集めているのです。38節で主が言われた通りです。そしてそれは大きな喜びです。人々の魂が救われることほどすばらしいことはないからです。救われた魂を見て、種蒔きに労苦した先人たちは、刈り取る者とともに大いに喜ぶのです。主が「それは蒔く者と刈り取る者とがともに喜ぶためです」(38節)と言われた通りです。今日の私たちが福音を語り、人々を信仰へと導いたとしても、すでに多くの先輩たちの労苦の結果の実を得ているにすぎません。先に言ったことと矛盾するようですが、私たちの労苦は、先人の労苦に比べれば小さいのです。しかし、大きな喜びを味わうことが許されていますから、心から主を賛美しましょう。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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