礼拝説教

2012年8月5日

「よくなりたいか」
ヨハネの福音書 5章1〜9節前半

 主イエスは私たちの罪を赦すためにこの世に来てくださいました。御父から遣わされ、神の御子として来られたため、私たちを救うことがおできになるのですが、それを証しするものとして、奇蹟(しるし)を行いました。同時に、私たちをあわれんでくださり、いやしのみわざをなさいます。その両方のみわざはともに大切です。今日もヨハネから学びましょう。

 I. よくなりたいという願いが大切である
 主イエスは数々の奇蹟、中でもいやしの奇蹟を行いました。しかし、多くの場合、成人した本人の意志を無視していやしをなさることはありません。ここに登場する人は、38年もの間、病気にかかっていました。自分でも歩けず、いやされる望みもありません。場所はエルサレムの羊の門の近くのベテスダの池とその回りにある5つの回廊です。時は五旬節か仮庵の祭りの時で、イエスはエルサレムに上られました。その回廊に伏せっている人に、イエスは声を掛けられました。「よくなりたいか」(6節)。それは本人にいやされたいという願いがあるかどうかを問う質問です。幸いそれはあったようです。でも彼には希望がありませんでした。あまりに長い間、伏せっていて、しかも誰も手を貸して、直るかもしれない池に入れてくれないのです(7節)イエスの質問と本人の願いの表明は大切です。多くの場合、あきらめてしまい、いやされたいという願いすらなくなってしまうからです。主イエスは、その願いを起こさせてくださるお方でもあります。

 II. イエスは願いを叶えてくださる方である
 イエスはその人に言われました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい」(8節)。すると、その人は直ぐに直って、床を取り上げて歩き出しました(9節)。主イエスはたちどころに、歩けない人を立たせ、歩かせることのおできにある方です。私たちは病や怪我からいやされます。それは、神がいやしてくださるからです。時には、お医者さんの手の技や薬を用いられます。しかし、本質的には神様がいやしてくださいますし、いやされるからだを与えてくださっているかからです。主イエスは、時には、私たちを一瞬のうちにいやしてくださいます。それを奇蹟と言います。イエスの時代とその後の長い教会の歴史の中で、いやしやほかの奇蹟が顕著な形で行われたのは、主イエスの時代と使徒の時代です。奇蹟は主イエスとペテロやパウロによってなされました。それの必然性があったからです。主イエスが神の御子キリストであること、使徒たちには神のことばを語る権威があることを証明するためでした。今は、それらの目的でなく、私たちがいやされたいという願いと、主が私たちをあわれんでくださるゆえにいやしてくださるのです。(ヨハネ15:7参照)

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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