人は誰でも回りの人たちからほめられたい、高く評価されたいと願うでしょう。ユダヤ人の指導者たちもそのような願いを多く持っていました。ところがそれが主イエスと御父を信じる妨げとなったのです。イエスは彼らとまったく対局にありました。
I. 神からの栄誉を求める
主イエスは「わたしは人からの栄誉は受けません」(41節)と言われます。イエスは一貫して人からの栄誉もご自身の栄誉も求めず、御父の栄誉だけを求めました(8:50参照)。それは御父のみこころを求めて公生涯を送られたご自身の生き方そのものでした。パリサイ人や律法学者に代表されるユダヤ人の指導者たちは、御父の名によって来られたイエスを受け入れません。イエスが「ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです」(43節)と言われるとおりです。彼らが主イエスの言われることを偏見なしに、純真な思いで聞くならば、そのおことばが真実であり、偽りのないことがわかるはずです。しかし、彼らはイエスの所に行かないで、モーセのところに行き、彼に望みを置きました(45節)。私たちはそうであってはなりません。イエスを救い主と信じ、神からの栄誉を求めて生きるのです。
II. 人からの栄誉を求める
ユダヤ人の指導者たちは「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めない」(44節)生き方を続けて来ました。彼らの目は神に向かうよりも、回りの人々に向かいます。だから、主イエスを信じることができないのです。そして彼らの中に神への愛がないのです(42節)。主を信じるなら、主は神の愛も与えてくださいますから、その愛をもってイエスと御父を愛することができます。本来私たちには愛はありません。神がまず私たちを愛してくださったのです(Iヨハネ4:9〜10参照)。だから、主を信じた時に、神を愛することができるのです。彼らはまた、主イエスよりもモーセを重んじました。彼らは律法を守ることで、神の前に義とされることを願いました。しかし、人間には律法を守る力がありません。律法を守らなければ、律法を犯したとして、モーセに訴えられます(45節)。彼らはモーセの書を信じていると自負しています。ところがモーセは主イエスについて書いたのです。申命記18:15、18はイエスについての預言です。私たちは、聖書に記されたイエスを救い主と信じ、従って行きたいと思います。そうすれば人々の栄誉を求めないで、イエスと御父からの栄誉を求めることができるのです。 |