私たちは、この世に生を受けて以来、毎日を決して平穏、無事に過ごしているとは言えません。人生には、平坦な道ばかりでなく、山あり、谷ありと困難を覚え、時には非常に危険な経験をする場合があります。信仰を与えられても、いつもいつも主イエスを身近に感じて生きているとは言えないでしょう。当時の弟子たちも様々な経験をしつつ、主イエスの本当のお姿を知って行きました。
I. イエスが離れていると感じる時
5000人の給食という大いなる奇蹟を経験した弟子たちは、夕方になって、主イエスから命じられるままに、舟に乗り込んで、カペナウムのほうへ向かいました。一方イエスは、群衆がご自分を王にするために、無理やりに連れて行こうとしているのを知って、ひとり山に退かれて、祈られたのです(15節、マルコ6:46)。北東の岸から北西の岸までそれほど遠くないのに、弟子たちは強い向かい風のために漕ぎあぐねていました。それをご覧になったイエスは、夜中の3時頃、湖の上を歩いて、岸から4,5キロメートルのところにいた舟に近づいて来られたのです(18〜19節、マルコ6:48)。弟子たちはどうしたでしょうか。イエスが幽霊だと思い、叫び声を上げたのです。彼らは恐れ、おびえてしまったからです。イエスは彼らに、「わたしだ。恐れることはない」と言われました(20節)。弟子たちはつい数時間前にイエスの大きな奇蹟を経験しました。しかし、そこから何も学んでいなかったのです。イエスが遠くにおられると感じてしまったのです。
II. イエスを身近に感じ、心に迎える時
イエスから確信のことばを聞いた時、弟子たちはどんなに嬉しかったことでしょう。彼らはイエスを喜んで舟に迎えました(21節)。イエスが舟に乗り込まれると、風がやんで、舟はほどなく目的地に着きました。イエスを舟に迎えることは、同時にイエスを心に迎えることです。本当は彼らはイエスが自然界の法則を破ることのできる神の御子であることを信じるべきでした。でもまだ、イエスに対する信仰が十分でなかったのです(マルコ6:52)。しかし、イエスが共にいてくださる時に、弟子たちは心からやすらぎと平安を感じたのです。主は嵐を静めると共に、弟子たちの不安や恐れを静めました。今日でも同じです。私たちが様々な困難に遭遇する時、イエスが遠くに感じられ、心の中に不安や恐れを感じます。しかし、もう一度主イエスを呼ばわる時、主が私たちのすぐそばにおられることに気づき、「わたしだ。恐れることはない」というお声を聞きます。そして主イエスを改めて心のなかにお迎えする時、不安から平安へと変わるのです。 |