クリスチャンは、イエスを神の御子、キリスト(救い主)と信じている人です。しかしそれは、単にイエスの教えを受け取って、その教えを実践しているだけでないことは確かです。その前にイエスとの深い人格的なつながりが必要です。イエスを信じることは、イエスを受け入れることだからです。だからクリスチャンは、イエスを信じ、そして信じ続ける人であることがわかります。
I. イエスを信じる
イエスはこの6章のお話の中で、「わたしは天から下って来たいのちのパンです」とご自分のことを、この世のパンと区別された、生けるパン、霊的な食物であると何度もくり返されました。そして「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません」(53節)と言われました。ここで使われている「食べる」「飲む」という動詞は、ギリシヤ語で、継続ではなく点的な行為を指しています。つまり瞬間的な「食べる」「飲む」という行為です。それは「信じる」という点的な行為で、「信じ続ける」という継続的な行為と区別されています。この53節でイエスが言われたことは、イエスを本当の意味で信じ、人格的に受け入れなければ、救われ、永遠のいのちが与えられないことです。反対に、イエスを心から「信じる」者は、永遠のいのちが与えられるのです。これは、私たちが、信仰告白をして救われることを指しており、その行為は一回限りのものです。
II. イエスを信じ続ける
クリスチャンは、イエスを信じた後、イエスにどこまでも従っていきます。これはイエスを「信じ続ける」ことを意味します。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています」(54節)は、53節と違う行為を示しています。肉を「食べる(者)」、血を「飲む者」が指す動詞の行為は、継続的です。つまり、「食べ続ける(者)」「飲み続ける者」を意味しています。これはまさに、私たちクリスチャンの信仰生活の歩みを指すことばです。56節も同じ継続的な意味で動詞が使われています。私たちがイエスを信じ続けるなら、私たちはイエスにとどまり、イエスもまた私たちにとどまってくださいます。57-58節の「食べる」も同じです。これは私たちとイエスとの霊的なつながりを指していて、「まことのブドウの木」であるイエスと「その枝」である私たちとの関係と似ています(15:4-5参照)。注解者の中には、ヨハネのこの箇所と、聖餐式との関わりを指摘する者がいます。ヨハネがこの章で聖餐式に直接言及しているとは思えませんが、イエスとの霊的なつながりにおいて、共通点があります。いずれにせよ、イエスを信じ続けましょう。 |