イエスが30歳ごろまで、貧しい家庭で育ったことは十分予想されます。お父さんのヨセフは大工として(主に石材の加工をして家を建てたりして)一家を養いました。恐らくお父さんは早く亡くなって、イエスがお母さんと兄弟たちの面倒を見たのでしょう。イエスはそのような中で公的生涯に入られました。
I. 兄弟たちはイエスを信じなかった
その後、イエスはガリラヤを巡っておられ、ユダヤを巡ろうとはされませんでした。宗教的指導者たちがイエスを殺そうとしていたからです(1節)。時に、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていました。これは多くのユダヤ人たちがエルサレムに上って行く、三大祭りの一つで、今日の9-10月に行われます(レビ記23:34以下)。イエスの兄弟たちは、イエスがエルサレムに上って弟子たちも期待しているわざを行うように勧めます(イエスには弟たちが4人、妹たちが複数いました。マルコ6:3参照)。すでに公の場に出て数々のわざを行なってきたのだから、隠れた所で事を行うことはなく、世に自分を現す絶好の機会ではないかと促したのです。しかし、それは極めて皮相的にしかイエスを見てないことから発せられることばです。兄弟たちもイエスを信じていなかったのです(5節)。しかしイエスはまだご自分を公に世に現す時でないと言われました。いつも御父のご計画のままに行動されるイエスといつでも意のままに行動するこの世の兄弟たちとは言動がまったく違うのです。
II. 世はイエスを憎んだ
イエスは宣教を始めてからも間もなく、ユダヤ人の指導者からいのちをねらわれ、世の人々からは憎まれました。「わたしが、世についてその行いが悪いことをあかしするからです」(7節)と言われるとおりです。イエスは正しく、世の人たちは悪い行いをしているので、イエスからその悪を指摘されると、世は正しいイエスを憎むのです。非常に理不尽ですが、それがこの世のありのままの姿です(3:18-21参照)。やがてイエスが言われますが、同じようにイエスの弟子たちも世から憎まれます。それはイエスも弟子たちもこの世の人々と本質的に違うからです(15:18-25参照)。イエスはやがて時が満ちた時にエルサレムに上っていかれ、ユダヤ人たちの裁判にかけられて有罪とされ、十字架刑に処せられてしまいます。いずれにしてもイエスは御父のご計画のままに歩まれます。イエスが十字架にかかられる時が「時が満ちる」のであり、それまではどんなにイエスを捜して殺そうとしても、イエスを捕らえることはできないのです。イエスがすべて御父のみこころのままに歩まれたように、私たちもイエスのおこころに沿って歩んで行きましょう。 |