私たちの救い主イエス・キリストがお生まれになったことは、れっきとした歴史的な出来事であり、事実として確かめることができます。イエスさまは、紀元前4ー6年頃ユダヤのベツレヘムという小さな町で、それも家畜小屋で処女マリやからお生まれになりました。今日は、11節を中心にイエスさまについて主に二つのことを考えてみましょう。
I. イエスさまは救い主としてお生まれになった
「救い主」は私たち人間を罪と死とさばきから救う方です。人は誰でも生まれながらの罪人であり、死とさばきを免れることができません。私たちはうそをついたり、ことばで人を傷つけたり、時には人の物を盗んだりします。それを聖書は罪と言います。だから人はみな救われなければなりません。しかし、どんなに偉い人でも、有名な宗教家でも、人間が人間を救うことはできません。イエスさまならできます。「イエス」という名前の意味は「主は救われる」とか「主は救い主」です。「主」は神を、そして私の主人を指すことばです。またギリシャ語の「キリスト」は、ヘブル語の「メシヤ」とともにもともと「油そそがれた者」のことで、王・祭司・預言者が正式に任命される時に油をそそがれ、働きを始めました。この油そそがれた者の中から「救い主」が現れることが明らかにされてきて、次第に「キリスト=メシヤ」が救い主を意味するようになったのです。イエスさまは神さまですから、私たち人間を救うことができるのです。
II. イエスさまは私たちのためにお生まれになった
御使いは、羊飼いたちに向かって「あなたがたのために」、救い主がお生まれになりました、と言いました。ですから直接には羊飼いたちを指すことは確かでしょう。しかし、ほかに「この民全体」すなわちイスラエル民族全体(10節)をも指しています。でも実はイスラエルだけでなく、全世界の人々を指しているのです。イエスさまは全人類の救い主としてお生まれになったのであり、その中にあなたも私も含まれています。イエスさまは、遠い昔、遠い国で、私たちと関係のないところで、生まれたのではなく、ここにいる私たちのために、救い主としてお生まれになったのです。お生まれになった理由は、父なる神さまが私たちを愛しておられ、私たちが御子を信じて罪赦され、永遠のいのちが与えられ、幸せな一生を送れるようにと望んでおられるからです(ヨハネ3:16参照)。
「すばらしい喜びを知らせる」(10節)ことが福音を知らせることです。福音は、本当に喜ばしい知らせなのです。なぜなら、誰でもイエスさまを救い主と信じるならば、罪が赦され、神の子どもとされるからです。この良き日に神の御子イエスさまを救い主として心の中にお迎えしようではありませんか。 |