しばらくの間、クリスマスや年末、新年、そして成人祝福式のメッセージを聞いて来ました。久しぶりにヨハネの福音書に戻ります。この7章で群衆は、イエスは一体誰か、イエスは約束のキリスト=メシヤなのかどうかという根本問題を議論し合っています。しかしイエスはご自分をはっきりと御父が遣わされたキリストであると語っておられるのです。
I. イエスは神から出た教えを語られる
イエスは兄弟たちから勧められた時には、仮庵の祭りのためにエルサレムに上らないと言われたのですが、兄弟たちが上った後で、いわば内密に上って行かれました。すでに、いわゆる群衆の熱狂的な人気は去り、また多くの弟子たちもイエスから去って行きました。しかしなおエルサレムの群衆の関心事は、「イエスはどういう方か」ということでした。人々の中には「イエスは良い人だ」と言う者もいれば、「群衆を惑わしている」と言う者もいました(12節)。いつの時代も多くの人はイエスについて正しい見方ができていません。ところが祭りの中頃になって、イエスは宮に上って教え始められました(14節)。そしてユダヤ人の指導者たちは、イエスの教えに驚いて言いました。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか」(15節)。主イエスが神の御子であり、御父からすべての知恵と知識を受けておられるのですから、あらゆる知恵と知識を持っておられることに何の不思議もないはずです。イエスはそれを16-17節ではっきりと説明されたのです。
II. イエスは自分を遣わした方の栄光を求める
イエスが言われるように、イエスは御父から離れてご自分のことばを語られるのではなく、ご自分を遣わした方、父なる神のことばを語られます。だからこそ、イエスの教えは神から出たものであり、到底いわゆる人間がどんなに知恵と知識の限りを尽くしても、人間のことばははるかに及びません。そしてそのことが本当わかるためには、イエスご自身同様、私たちも「神のみこころを行おうと願う」必要があります(17節)。私たちが自己中心的な考え方を止め、自分の栄光を求めるの生き方から解放されて初めて、イエスの教えが神から出ていることがわかるのです。イエスはさらに「自分から語る者は自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません」(18節)と言われました。イエスは最初から最後までご自分を遣わした方の栄光を求める生き方をされた方ですから、御父同様、ご自分は真実であり、不正がないのです。私たちもこのお方に従っていけば、正しい道を歩むことができるのです。 |