私たちはヨハネの福音書を学び続けていますが、その主な目的は、イエスはどういうお方かを知ることにあります。私たちが「イエスは神の御子、キリストである」とわかり、イエスを救い主と信じることができれば、この書の著者の意図は果たせたことになります。今日の聖書箇所から私たちは主イエスについて大切な真理を学びます。
I. 御父のもとから遣わされた方
イエスが宮で話された時、聞いていた人たちは大勢いましたが、おおよそ3つのグループに分かれていたと思われます。第一のグループは、エルサレムの人たちで、イエスの話を表面的に受け止めていますが、むしろ好意的で、ユダヤ人の指導たちに批判的な人たちです(26-27節)。しかし、そのグループの中でもイエスの話を聞いて反発し、イエスを捕らえて、恐らくユダヤ人の指導者に引き渡そうとした人たちもいました(30節)。第二のグループは、いわゆる群衆で、多くの者がイエスを信じました。もっとも彼らの理解は表面的でしたが(31節)。第三のグループは、祭司長やパリサイ人たちで、彼らはイエスを捕らえて殺そうとしていました(32、1節)。第一のグループの人たちは、イエスがナザレ出身の人と知っていると言うのですが、メシヤであるキリストがどこから来るか知っている人は誰もいないと言います(27節)。しかしイエスが強調して言われることは、イエスはご自分で来たのではなく、御父から出たのであり、御父が遣わしたのだということです(28-29節)。これが最も大切な真理です。
II. 御父のもとに行かれる方
イエスが「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます」(33節)と言われ、続いて34節で言われたことの真意を、ユダヤ人たちはわかりません。彼らはもともとイエスに反感を抱いており、イエスが真理を話しておられるのに、耳を傾けてその本当の意味を理解しようとする気が少しもありません。だから、常に表面的にしか捉えられません。彼らは、「私たちには、見つからない」という意味は「まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい」(35節)と言うのです。後でわかるのですが、祭りの時、礼拝のために上って来た人々の中にギリシヤ人がいて、彼らはイエスにお会いして、教えを受けたいと考えていました(12:20以下)。ですからイエスがギリシヤ人たちに好意的であったことは十分考えられることです。イエスは間もなく十字架にかかって死なれます。その後よみがえり、やがて御父のみもとに行かれます。その真理はイエスを信じる者のみに許されることです。私たちに許されていることを感謝しましょう。 |