礼拝説教

2013年2月10日

「主イエスを信じて、聖霊を受ける」
ヨハネの福音書 7章37〜39節

 多くの場合、人々は心の中に何か満たされていないものを感じて生活していると言えるでしょう。しかし、突き詰めて考えないので、それはお酒や食べ物や趣味的なもので満足を与えられると思ってしまいます。しかし、本当は心の中に満たされない部分があることはむしろ正常なのです。今日も主イエスが教え、しかも与えて下さる恵みについて学びましょう。

 I. 誰でも渇いているならイエスのもとに行こう
 今イエスはエルサレムの宮の中におられます。この1週間、シロアムの池から汲み上げられた水が運ばれて、祭壇の上に注がれました。それは民たちにとって非常な喜びの儀式であり、この水汲みを通して、人々は荒野での水の恵み・祝福を思い起こしていたのです(出エジプト17:1-7ほか参照)。この仮庵の祭りも終わりの日になりました。恐らく8日目の安息日だったのでしょう。この「大いなる日に」イエスは立ち上がって、大声で言われました。「だれでも渇いているなら、わたしにもとに来て飲みなさい」(37節)。これが肉体的なのどの渇きを指していないことは明らかです。サマリヤの女のように、心のなかにぽっかり空洞があって、この世のどんなものをもってしても、そこを埋め、満足を与えるのもはないのです。でも幸いなことに、主イエスが私たちを招いてくださっております。シロアムの池から汲み上げ、祭壇に注ぐ水こそメシヤであるイエスを指し示していると、主は言われるのです。

 II. イエスは信じる者に聖霊を与えてくださる
 イエスは招きのことばに続いて、すばらしい恵みを約束してくださいました。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」間髪を入れずヨハネは「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである」(39節)と解説しています。さらにヨハネは説明を加え、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊は、この時はまだ注がれていなかった(原典は「まだなかった」)と語っています。「栄光を受ける」とは、イエスが十字架にかかって死なれることを指していますが、それに続くよみがえりと天に上られて御父の右の座に着かれるまでのことを指していると考えられます。そしてそのとおりに、ペンテコステの時に、主イエスは御父のもとから約束の聖霊を注がれたのです。イエスの恵みの約束は、第一に、イエスを信じる者は、心のうちに聖霊が与えられて、心の渇きがいやされることです。第二に、その聖霊による喜びはその人一人に留まらないで、生ける水の川となって流れ出て、ほかの人へ聖霊の恵みを分け与えるようになるということです。すばらしい恵みですね。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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