イエス・キリストほど人々からさまざまに評価され、批判され、時には裁かれた方はいないでしょう。それは当時も今日も変わりません。主イエスを正しく評価するには、主への信仰が必要なので、信仰なしに正しい理解ができないからです。今日の聖書箇所も人々の判断が分かれていることを示しています。その判断の基準を聖書から学びましょう。
I. イエスはキリスト(救い主)と評価する人々
まだこの時点で、イエスを本当の意味で正しく理解する人々はいませんでしたが、イエスを好意的に評価する人々はいました。まず、イエスが祭りの間に語られたことばを聞いて感銘を受けた群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ」と言い、またある者は、「この方はキリストだ」と言いました(40-41節)。「あの預言者」とは、モーセのような預言者を指し、かつて主がモーセに告げたことばにより、長い間人々はメシヤの姿として期待して来ました(申命記18:15、18)。また、「キリストだ」と言う人は、当時の人々の多くが期待していたメシヤ像をイエスに重ね合わせ、自分たちをローマの支配から解放してくれる指導者と考えていたのです。一方、イエスを捕らえようとして祭司長、パリサイ人から派遣された役人たちは、失敗して帰って来て、「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」(46)とイエスについて報告しました。イエスの話に感銘を受けたのでしょう。そして何よりも、イエスを高く評価したのはニコデモでした(51節)。
II. イエスはキリストでも、預言者でもないと言う人々
イエスに対して批判的な人々は、パリサイ人や律法学者、祭司長と言われる宗教的な指導者でした。彼らは最初からイエスの話に耳を傾けず、心を開かず、先入観と偏見をもって聞いていました。彼らは、どんなにイエスが真理を語っても、神以外に行えない奇蹟を行なっても、イエスを来るべきメシヤとして受け入れませんでした。役人たちの報告を聞いても、「おまえたちも惑わされているのか。議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったのか」(47-48節)と言って、自分たち指導者たちの評価が絶対正しいと考えていたのです。その上、律法を知らない群衆を軽蔑しています(49節)。彼らは、ニコデモが律法に則って正しい評価をするべきと進言しても、聞き入れませんでした。「ガリラヤから預言者は起こらない」というのが彼らの確信の根拠でした(52節)。群衆もイエスに批判的な人たちは「まさか、キリストはガリラヤから出ないだろう。キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか」(41-42節)と指導者たちと同様、表面的な知識から判断して、イエスをメシヤでないと結論づけてしまうのです。彼らの判断の基準に従ってはいけないのです。 |