誰かが公の場で証言することになった時、その人の証言が皆に受け入れられるかどうかは、大変重要なことです。その人がいつも本当のことを話していて、皆から信用されていたならば、その人の証言は受け入れられるでしょう。そして、さらにほかの信用できる人が立って、その人の証言は真実であると保証してくれるなら、皆は初めの人の証言を真実なものとして受け入れるでしょう。主イエスの場合はどうだったでしょうか。
I. イエスはご自分について証言される
イエスは「わたした世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(12節)と言われました。そこでパリサイ人は、イエスについて「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません」(13節)と主張しました。これは法廷などで正式に証言する時、本人のほかに必ずふたり、または三人の証言が必要であるとの律法に基づいた主張です(申命記19:15)。しかし、私たちはイエスの証言のほかに誰かの証言が必要であるとは思えません。何しろ、神であるイエスご自身の証言ですから。イエスはこう言われました。「もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。わたしは、自分がどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。」(14節)これは永遠の昔から永遠の未来にわたって存在し、それゆえにすべてをご存知である神以外に言うことのできないことばです。イエスこそ天地万物を御父とともに造られた方ですから、その方の証言は真実と言えるのです。
II. 御父もイエスについて証言される
福音書の中で御父はご自分のひとり子、イエスについて3回証言しておられます。まずイエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられた時、天から告げる声がありました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17ほか)二番目の証言は、イエスが3人の弟子とともに、高い山に上り、御からだが変えられた時の御父からのお声です。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」(マタイ17:5ほか)そして3番目は、イエスがギリシヤ人にお会いし、「人の子が栄光を受けるその時が来ました」(ヨハネ12:23)と言って、有名な「一粒の麦」のたとえを語った時です。イエスは心が騒いでいると言い、「父よ。御名の栄光を現してください」と言われた時、御父からお声がありました。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現そう。」(12:28)これら3つの御父の証言はみな、天から御子イエスに告げられたものですが、ユダヤ人たちは御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません(5:37)。御父の証言は、イエスの証言とともに真実で、信じるに値するものです。イエスの証言を受け入れましょう。 |